真珠の物語 人魚の涙=作り手の涙~三重県伊勢志摩~ – Guidoor Media | ガイドアメディア

真珠の物語 人魚の涙=作り手の涙~三重県伊勢志摩~

白いシーツの上にピンク色の輝く真珠が巻かれている
参照:ODAN

御木本幸吉 真珠産業の創業者としての偉業

白いシーツの上にピンク色の輝く真珠が巻かれている
参照:ODAN

三重県伊勢志摩出身の御木本幸吉氏は、真珠の養殖技術を確立したことで知られています。

彼の研究は真珠業界に革命をもたらし、日本の一大産業へと成長しました。
本記事では、御木本氏の人生と情熱を辿りながら、真珠の魅力を探求します。

真珠はそのロマンチックな異名「月のしずく」「人魚の涙」にふさわしい、冠婚葬祭を問わず身に着けられる宝石です。

真珠のネックレス
APSさんによる写真ACからの写真

その美しさと繊細な輝きは、多くの人々を魅了してきました。

真珠の歴史や特性、そして魅力を紐解きながら、御木本氏の情熱が生み出したジャパンクオリティな真珠の世界に触れていきましょう。

人生を変えた「パール」に出会った20歳の転機

真珠養殖に初めて成功したミキモト創業者御木本幸吉
御木本幸吉(1858 – 1954)

1858年、うどん屋の長男として御木本幸吉は志摩国鳥羽浦の大里町に生まれました。

13歳になると家業を手伝う傍ら、祖父と同じ青物行商にも従事していきました。

父が病に伏していたため、貧しい暮らしを余儀なくされていたからです。

それでも幼少期の幸吉は自ら一生懸命学び、前向きに物事を考え、常に謙虚な姿勢であったようです。

青空の下、三重県伊勢湾の真珠養殖いかだ

(C)ISESHIMA TOURISM&CONVENTION ORGANIZATION「真珠養殖いかだ」

そして20歳の時、東京・横浜へ視察旅行に出かけた際に地元の天然真珠が高値で取引されているのを知り、真珠養殖に踏み切ったと言われています。

また当時の真珠ブームで乱獲がはびこり、アコヤ貝が絶滅するのを恐れていた幸吉は養殖でその危機を救いたいという気持ちもあったようです。

幸吉は1888年志摩郡神明浦に初の養殖場を建て、真珠貝の養殖を始めました。

しかしながら日本初の真珠の養殖への道のりはかなり険しいものでした。

そもそも真珠はダイヤモンドなどの鉱物とは違い貝の体内で作られる偶然の産物で、今まで一度もこの研究に成功した人がいなかったからです。

柳宗理の祖父であり、御木本の真珠養殖を陰で支えた柳楢悦

柳楢悦(1832-1891)

幸吉を助けてくれたのは、大日本水産会幹事長の柳楢悦氏でした。
柳氏から海の使用許可をもらった幸吉は、まず真珠の元となっているアコヤ貝を増やすことを考えます。

海底に杭を打って縄を張り、そこに木片や瓦を結び稚貝を付着させる方法を試しました。
実験開始から3か月が経つと稚貝の付着が確認され、アコヤ貝は着々と増えていきました。

水しぶき

吐田 勉さんによる写真ACからの写真

貝の増加は真珠の増加に繋がると考えていた幸吉でしたが、もともと天然真珠でも1000個の貝の中に1つあればいい方だと言われているくらい難しい生成はそう簡単にはいきませんでした。

幸吉の期待とは裏腹に真珠の数は増えず落胆していた折に、柳氏から1通の手紙が届きました。

「真珠研究の第一人者東京帝国大学教授の箕作佳吉理学博士を紹介したい。」この柳氏の計らいが、幸吉の研究にさらなる拍車をかけていきます。

真珠への情熱と執念の研究:養殖真珠の実現

真珠の研究に力を貸した箕作佳吉

箕作佳吉(1857-1909)

1890年、幸吉は柳氏に紹介してもらった箕作氏に会いに行きます。

そこで、幸吉は真珠の成因と養殖法の説明を受け、「誰も成功したことはないが、理論上は人の手によってできるはずだ」と助言をもらいます。

真珠の生成は何らかのきっかけで貝の中に異物が入り込み、それが吐き出されずに体内に長時間留まることでその異物を包む真珠室が形成されるというものでした。

誰も成功したことがないという言葉は幸吉の研究心を更に突き動かし、早速故郷に戻り実験を開始します。

青い布に貝殻

キイロイトリさんによる写真ACからの写真

幸吉は思いつくままにガラスや陶器の破片など色々なものを貝に入れ、数か月後に開けて中を確認するという作業を繰り返しました。

しかしほとんどは吐き出されてしまい、ごく稀に体内に異物が残っても真珠が生成されることはありませんでした。

成果は出ないまま時は過ぎ、「真珠に憑りつかれて可哀そう」と人々は陰口を叩くようになりました。

水色っぽい真珠の球が敷き詰められて輪になっているところに一粒だけポツンとある幻想的な画像。
参照:ODAN

そしてこの最悪の状況の中、さらなる悲劇が幸吉を襲います。

大規模な赤潮による英虞湾のアコヤ貝全滅です。

もう諦めるしかないと挫折しかけた幸吉に妻うめは鳥羽の相島(おじま・現在のミキモト真珠島)にまだ貝が残っていることを伝えます。

用心深かった幸吉は英虞湾だけでなく、相島にも貝を養殖していたのを忘れていました。

妻の一言で幸吉はもう一度だけ頑張ってみよう!と奮起するのです。

貝殻が砂浜にありその中に真珠が一粒ある
参照:ODAN

赤潮の悲劇から3年経った1893年、ついに夫婦そろって奇跡の瞬間を迎えます。

引き上げた貝の中に、見事な半円形の真珠が出来ていたのです。

ちょうど20歳で幸吉が真珠に出会ってから、15年後の出来事でした。

さらに3年後、箕作氏の援助で幸吉は半円真珠の特許権を取得します。

養殖真珠が勢いに乗ってきたころ幸吉の最愛の妻であり、研究を支え続けた妻うめは32歳の若さでこの世を去ります。

5人の子どもを育てる傍ら夫の研究を見守り励まし続けたうめが、真珠事業の拡大と夫の成功を最後まで見届けられなかったことは大変無念だったことでしょう。

ジャパンクオリティの認知:ミキモトの真珠が世界を魅了

パリの高級ブランドが立ち並ぶヴァンドーム広場
筆者撮影 パリのヴァンドーム広場

最愛の妻を亡くした悲しみをバネに幸吉はさらに研究を続け、47歳にして真円真珠を完成することに成功しました。

これがいわゆる皆さんがよく目にしている丸い粒状の真珠です。

半円真珠よりもさらに需要のある真円真珠は世界でも話題になり、こうして日本の真円真珠の商業生産は活発化していったのです。

幸吉は銀座を皮切りにロンドン、ニューヨークと世界にジュエリーブランド「MIKIMOTO」を出店をしていきます。

余談ですが、パリのハイブランドが集結するヴァンドーム広場に1986年東洋で初めてハイジュエラーとしてお店を構えたのもMIKIMOTOです。

今でこそ順風満帆に見えるMIKIMOTOですが、養殖真珠が世界で認められるまで幸吉はさらに苦労を重ねることとなるのです...

裁判で使うガベルと法律の本が2冊置いてある
参照:ODAN

養殖真珠の発展により、天然真珠の価値が低下してしまうのではないかという事態を恐れた海外のジュエラーは、排他的思考から「ミキモト」を攻撃し始めます。

事の発端は1921年ロンドン市場に進出していた養殖真珠に対し、「日本の養殖真珠は天然真珠の模造品である」と地元新聞が書き上げたことに始まりました。

名だたる宝石店で販売する養殖真珠を真珠と表記すること自体が虚偽の記載であると公式声明が発表されると、この報道はパリにも飛び火しパリの真珠市場は一時閉鎖され、養殖真珠の真偽が問われる民事裁判が勃発。

これが「パリ真珠裁判」です。

窮地に立たされた幸吉でしたが、学者たちが養殖真珠は天然と変わらないものであるという証明をしたことから見事に裁判に勝ち、名実ともに日本の養殖真珠の先駆けとして、そしてハイジュエリーブランドとして、MIKIMOTOは確固たる地位を築いていくことになったのです。幸吉66歳での出来事でした。

世界の偉大なる発明家トーマス・エジソン
トーマス・エジソン

真珠裁判の決着後、幸吉はアメリカへ視察に行き、実業家渋沢栄一の紹介で、世紀の発明家エジソンと面会します。

エジソンは今までの幸吉の功績を称えこう言いました。

「これは養殖ではなく真の真珠だ。私の研究所でできなかったものが二つある。一つはダイヤモンド、いま一つは真珠である。あなたが動物学上からは不可能とされていた真珠を発明完成されたことは、世界の驚異である。」

この言葉に幸吉は感銘を受けながらも謙虚に「あなたは巨星のような存在だが、私は多くの発明家の一人にすぎない。」と答えたのは常に少年時代から地に足を付けて努力し続けてきた幸吉らしい一面ではないでしょうか。

高級なビロードっぽい赤い宝石箱が開いていて中から真珠のネックレスが見える。一連真珠でトップにはダイアモンドの花モチーフ。
参照:ODAN

その後も幸吉はパリの博覧会やニューヨークの博覧会など精力的に出展し、MIKIMOTOを自らの手で成長させていきました。

96歳で死去するまで「世界中の女性を真珠で飾りたい」という信念のもと、常に奢れることなく己の道を突き進んでいったのです。

そして幸吉は世界に羽ばたいていく中でも常に故郷三重県伊勢志摩を愛し、故郷の発展に貢献していきました。

志摩に自宅を構えていた幸吉は賓客を招く際に、真珠島を自ら案内し、伊勢志摩真珠の魅力を伝え続けていたそうです。

1940年代に三重県が真珠の全国の生産量9割以上を占めるようになってから今日に至るまで、伊勢志摩真珠が輝き続けるのはほかでもない幸吉の功績と言っても過言ではないでしょう。

真珠の歴史 古代から現代までの輝かしい旅路

幸吉が魅了され、伊勢志摩を真珠の街として発展させた「真珠」。

ここでは古くから真珠が世界に価値あるものとして認められてきた真珠そのものの歴史を辿り、真珠の需要が高まっていった理由を紐解いていきましょう。

古代から愛された宝石 真珠の神秘とロマン

ローマにある闘技場コロッセオ
筆者撮影 ローマ・コロッセオ

真珠の歴史ははるか昔、紀元前まで遡ります。

すでに古代メソポタミアの歴代王朝は真珠に価値を見出していたことが、遺跡から出土した多数の真珠によって判明しています。

また、紀元前330年にアレクサンドロス大王の東征によりオリエントの真珠をヨーロッパの人々が知るきっかけが生まれ、その後インドとの交易により1世紀には古代ローマ帝国に真珠がもたらされました。

こうして世界中の人々が次々に真珠に魅了されていき、真珠の価値が見出されていったのです。

クレオパトラ7世頭部(紀元前40年頃、ベルリン美術館蔵)
クレオパトラ7世頭部(紀元前40年頃、ベルリン美術館蔵)

かの有名なエジプト最古の女王クレオパトラもまた、真珠と深いかかわりのある人物です。

彼女は歴史上もっとも大きな真珠の耳飾りを所持していたと言われています。真珠とクレオパトラにはこのような伝説が残っています。

ローマの軍人アントニウス(クレオパトラの後に夫になる人物)が、エジプト遠征にて夜毎に宴会を繰り返すのを見かねたクレオパトラは、「私なら1回に1000万セステルティウスを費やすような贅沢な宴会を開くことができるわ」と言ってのけました。

そんな宴会できるはずがない!とアントニウスは半信半疑になり、二人は賭けをすることにしました。

『アントニウスとクレオパトラ』というローレンス・アルマ=タデマが描いた絵画
『アントニウスとクレオパトラ』ローレンス・アルマ=タデマ

しかしクレオパトラが開いた宴はアントニウスが驚くようなご馳走もなく「たいしたことないじゃないか!」とアントニウスが揶揄すると、クレオパトラは片耳の大きな真珠の耳飾りを酢の中に入れて溶かし、一気に飲み干してしまいます。

この真珠は王国を買うこともできるくらいの価値だった故にアントニウスは度肝を抜かれ、もう一方の耳飾りも溶かそうとするクレオパトラを慌てて制し、自分の負けを認めたそうです。

この話のように実際に真珠は酸に弱い性質ですが、大きな真珠を溶かすまでの酸が実在したのかどうかは、謎に包まれたままです。

しかし真珠がこの時代においてもとても貴重なものだったことは、この伝説からもはっきりと伺えます。

日本は昔「天然真珠の一大生産地」だった

砂浜に閉じかけている貝殻があって、その中に一粒の真珠
参照:ODAN

さて、時を同じくして古代の日本も他国と同様、天然真珠の一大生産地だったことをご存知ですか。

真珠は中国への貢ぎ物として利用されていて、日本最古の輸出品の一つにも挙げられていました。

「魏志倭人伝」や「後漢書」の中にも日本の真珠についての記録が書き残されています。

真珠は位の高い人々の象徴として認知されていたのです。

マルコ・ポーロのイラスト。赤い衣装に身を包んだ絵。
マルコ・ポーロ

13世紀末には、マルコ・ポーロの「東方見聞録」にて、日本が「黄金」と「真珠」の国であると紹介され、ヨーロッパの人々は、日本の真珠に注目し始めます。

ヨーロッパ各地では真珠の需要がさらに高まっていき、時代の流れとともに、世界中で真珠の争奪戦が幕を開けます。

幸いにも、その後日本は鎖国を行ったことにより、この争奪戦に運よく巻き込まれずに済み、マルコ・ポーロが発見した日本=真珠の方程式はいつの間にか忘れ去られていったのです。

真珠ブームを生んだパリモード

シャネルのモチーフがついた真珠のネックレスが木の上に置いてある
参照:ODAN

さて、これまでの歴史上高貴な人々が身に付ける宝石として位置づけられていた真珠をカジュアルな洋服に合わせて楽しむアクセサリーとして取り入れ、一大ブームを呼んだ人がいます。

シャネルの創業者ココ・シャネルです。

シャネルが活躍した1920年代は美術界において「アール・デコ」の時代でした。

「左右対称で機能的な美」が台頭し、ファッション界にも影響を与えると、日本の統一規格の養殖真珠が大変重宝されるようになります。

その後もファッション界はさらに日本の真珠に注目していきます。

高級ブティックとタクシー
参照:ODAN

戦後はクリスチャンディオールの「ニュールック」と呼ばれるパリモードの再来をきっかけに、ティファニーやカルティエも日本の養殖真珠を扱うようになりました。

日本でも黒のドレスに真珠のアクセサリーという当時の流行スタイルが女性たちを虜にし、手軽に真珠のアクセサリーを楽しむ人が増えていったのです。

こうして真珠は歴史が刻まれた気品がありながらも、親しみやすいジュエリーとして、人々の生活に馴染んでいったのです。

真珠とともに歳を重ねる 長く愛用できるジュエリー

真珠は一生ものの宝石です。

母から子へまたその子へと代々受け継ぐことのできる真珠。

輝きを保つための秘訣をご紹介します。

真珠の特性を知ることで輝きを保つ秘訣

フェルメールの真珠の首飾りの少女の模写
参照:ODAN

成人のお祝いや結婚のお祝いなど、様々なおめでたい場面で贈られる真珠。

少なくとも一つは真珠のアクセサリーを持っている女性も多いのではないでしょうか。

真珠はダイヤモンドやルビー、サファイヤなど他の宝石に比べてもとても柔らかい宝石です。

その為他の固い宝石と一緒にしまってしまうと、擦り傷がすぐにできてしまうので要注意です。

また脱脂綿などでキズ防止に包んでしまうと脱脂綿の漂白作用により色の変色やつやがなくなる原因になるので、これも要注意です。

日差しの入るテーブルの上にグラス一杯のオレンジジュースとレモンとオレンジが置いてある
参照:ODAN

更にはクレオパトラの伝説にもあったように、真珠は主成分が炭酸カルシウムのため酸に弱いという性質があります。

そのためオレンジジュースやお寿司を自宅でつくる際のお酢や酸の強いものには注意してください。

また、酸だけではなくアルカリにも弱いので温泉や掃除をする際の洗剤などにも注意が必要です。

しかしながら真珠のアクセサリーをしたままこのような状況に置かれることはかなり稀だと思います。

温泉にアクセサリーを付けたまま入ったり、オレンジジュースを真珠にかけちゃったりなんてうっかりは皆さんも考えにくいですよね?

青空の下にあるひまわり畑

そこで、一番気を付けていただきたいのが汗です。

人間の汗はほとんどが水と言えども、塩分も含んでいます。

素肌に身に付けるアクセサリーに汗が付着するのは当たり前ですが、そのまま放っておくと真珠は光沢を失い、ネックレスの場合は真珠を繋いでいる糸も劣化してしまうのです。

必ず着用した後は専用のクロスなどで、ふき取ってからしまう様にしてください。

またネックレスの糸を新しいものに変えてくれるジュエリーショップもあるので、劣化が気になる方は糸を交換するのも一つの手だと思います。

大切に扱えば年齢に関係なくずっと楽しめるのが真珠の魅力です。

面倒な手入れを怠らないことが、輝きを保てる秘訣です。

真珠の価値決定要素 品質、色、形の重要性

白いデザート皿に真珠のネックレスが載せてあって、フォークでそのネックレスを巻こうとしている
くつしたいぬさんによる写真ACからの写真

それでは、良い真珠を見極めるには何を意識すればいいのでしょうか。

ポイントは2つあります。

まず1つ目は、「巻き」と呼ばれる真珠層の厚みです。

真珠は貝自身の分泌物により形成されるので、その分泌物の厚さが厚いと良質で強い輝きを発すると言われています。

2つ目は「照り」と呼ばれる、真珠の光沢です。

表面が滑らかで真珠層が均一だと照りが良くなります。

これは一つ目のポイントの「巻き」にも関連していて、巻きの厚さが厚ければおのずと照りも出てきます。

真珠のネックレスと貝殻

ライムルさんによる写真ACからの写真

見極め方としては真珠を覗き込んだ時に自分の顔がくっきり見え、物など映した時にもシャープに見える真珠を選ぶことです。

光沢のない真珠は映るものがぼやけて見えてしまうのが特徴です。

この2つのポイントに加えて、キズが少ないものであったり、形が粒ぞろいのものであったり、細かい点をチェックして、自分の好みにぴったり合うものを選ぶことが大切です。

色や形によって雰囲気もガラッと変わるのでぜひお気に入りの真珠を見つけてみてください。

ジャパンクオリティに触れる ミキモト真珠島

ミキモト真珠島の全景が見える航空写真
(C)ISESHIMA TOURISM&CONVENTION ORGANIZATION 「ミキモト真珠島(全景)」

最後にご紹介したいのは真珠王と呼ばれた御木本幸吉氏が窮地に立たされながらも、妻うめと一緒に養殖に成功した「相島 (おじま)」を真珠養殖の原点としてレジャー施設に発展させた「ミキモト真珠島」です。

この島では真珠の歴史に触れられるだけでなく、海女さんの実演を見ることもできます。

海女さんの存在はかつての真珠養殖でなくてはならない存在でした。

幸吉が残した貴重な養殖の足跡を知ることが出来るだけでなく、もちろん真珠を買うことも出来るので三重県伊勢志摩で最高のジャパンクオリティに触れてみてください。

ミキモト真珠島

公式WEB:ミキモト真珠島
住所:三重県鳥羽市鳥羽1-7-1
TEL:0599-25-2028
営業時間:HP参照
入場料 :大人1650円・小人(小・中学生)820円

御木本幸吉の足跡 真珠業界に刻まれた偉大なる遺産

御木本幸吉氏は三重県伊勢志摩出身であり、真珠の養殖技術を確立しました。

真珠は美しさと繊細な輝きから「月のしずく」「人魚の涙」と称され、冠婚葬祭にふさわしい宝石です。

本記事では御木本氏の情熱と真珠の魅力に焦点を当て、その歴史や特性を探求しました。御木本氏の努力が生んだジャパンクオリティな真珠は、多くの人々を魅了し、日本の一大産業となりました。

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