明智光秀(あけちみつひで)といえば、本能寺で主君織田信長を倒し、天下人の座を奪ったものの、羽柴(豊臣)秀吉に敗れて自分も落命しその期間の短さから「三日天下」と呼ばれたことで知られている武将です。そして2020年のNHK大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』の主役となります。この明智光秀の生涯を逸話など交えながら追ってみましょう。
(※この記事は過去の記事を更新し再公開しました。)
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明智光秀の来歴
明智氏は室町時代美濃の守護大名であった土岐(とき)氏の一族といわれています。父や生年は不詳で、生誕地も美濃、近江など複数説があります。
成長して土岐氏に代わり美濃の支配者となった斎藤道三に仕えましたが、道三が息子の義龍(よしたつ)と戦い敗れたため、美濃を去り越前の朝倉義景(よしかげ)に仕官したとされていますが、詳細は不明です。
道三と光秀は縁戚関係があったといわれています。道三の正室が明智氏の出身で光秀の叔母にあたり、さらに道三との間に生まれた娘は織田信長の正室帰蝶の方(濃姫)であり、彼女とは従兄妹であったとされていますが、これも確実なものではありません。
もしそうだとすれば後に仕えることになる信長とは義理の従兄弟の関係にあったことになります。
また近年の研究では光秀はしばらく医者をしていたことを示唆する文書が出てくるなど、まだまだ研究の余地がありそうです。
斎藤道三は二人で一人?
話は逸れますが、斎藤道三といえば北条早雲とともに戦国時代を代表する下克上の体現者として知られています。一代で一国の大名にのし上がるという国盗り物語です。
しかし近年発見された「六角承禎(ろっかくじょうてい)書状」において、この国盗りが親子二代で行われたものであることが記載されています。
六角承禎はこの当時南近江を支配する大名で、後に織田信長にその座を追われますが、足利将軍家とも深い関係があった人物です。
この書状によれば、父親が僧侶から商人、そして武士となり土岐氏家臣長井氏の家臣となり、さらに長井氏を継ぐ。息子が長井氏から美濃守護代斎藤氏を継ぎ、守護の土岐氏を追って自らが大名になったというものです。
真偽のほどはわかりませんが、かなり有力な説として唱えられています。
明智光秀、織田信長と出会う
この頃室町幕府は存在していたものの有名無実となりつつあり、それを裏付けるかのように13代将軍足利義輝は松永久秀、三好三人衆らに暗殺され、その弟で出家していた義昭も命からがら他国に逃げ出す有様でした。
義昭は少ない家来とともに越前朝倉氏の元に逃げ込み、ここで光秀は義昭と接点を持つことになります。義昭は京に上り自らが将軍を継ぐことを望んでいました。しかし時の当主朝倉義景はその願いを聞かず、越前を動こうとはしません。
そこで光秀は義昭の家臣細川藤孝(のちの幽斎)を通じて、当時美濃を手中に収めた織田信長を頼るように進言します。義昭はその進言を受け入れ、光秀を仲介役として信長と交渉し、信長もこれに応じて兵を動かします。
その結果、ついに義昭は上洛を果たし征夷大将軍に就任することができました。これにより光秀は義昭と信長に両属する家臣となります。
織田信長の比叡山焼き討ちと明智光秀
自らが将軍として政治の中心に立ちたい足利義昭とそれを認めない織田信長は徐々に対立するようになりますが、光秀は間に立ち関係維持に努める一方、信長配下の武将として武功を立てるようになります。その中で有名なのが比叡山焼き討ちです。
比叡山延暦寺とは
比叡山延暦寺は平安時代初期に最澄によって開かれた天台宗の寺院です。最澄以降も数多くの名僧を輩出し、創建以来日本仏教の中心的位置を占めていました。
その一方で僧兵を擁し、その武力を背景に強訴という形で時の権力者たちに自らの主張を突きつけていました。白河法皇、平清盛、源頼朝らも延暦寺の僧兵に手を焼いた記録が残っています。
その延暦寺に対して初めて強硬な姿勢に出たのが室町幕府6代将軍足利義教(よしのり)でした。このとき僧たちは義教への抗議として、根本中堂(こんぽんちゅうどう、延暦寺の総本堂)に自ら火をかけ抵抗しますが、義教の姿勢は変わらず延暦寺は屈服します。
しかし義教の死後、延暦寺は再び武装し世俗権威に対抗します。またその後室町幕府の管領で実権を握っていた細川政元から焼き討ちを受けるなど、激動の時代を迎えます。
戦国時代に入ると織田信長と対立する朝倉氏と浅井(あざい)氏の軍を匿い、反信長の行動を取るようになります。これは信長によって土地を横領されたことへの抗議だといわれています。
信長は横領した土地の返還を条件に和議を申し入れますが、延暦寺はこれを拒絶します。業を煮やした信長はついに焼き討ちに踏み切ります。これにより寺院の建物がすべて灰になっただけでなく、3,000にも及ぶ人間が殺されたと伝えられています。
これをもって信長の残虐ぶりが批判される一方、延暦寺も僧兵を使って世俗のことに干渉し、また一部の僧が戒律を破り、肉食し女色に耽るなどその乱脈ぶりも知られており、信長が腐敗した宗教団体に鉄槌を下したと肯定的に評価されている部分もあります。
近年の研究では、この焼き討ちにより焼かれたと確証がある建物はごく一部でその他はそれ以前に消失していた、また多くの僧侶も坂本(現滋賀県大津市)に下山しており、ここまでの大量殺戮ではなかったという説も唱えられています。
この焼き討ちに大きな手柄を立てた一人が光秀でした。最初は信長を諫めたともいわれていますが、結果的には信長から恩賞として近江国滋賀郡を与えられており、むしろ積極的に働いたと考えられます。
そして与えられた土地に本拠地となる坂本城を築きます。このことから、この時期光秀は実質的には信長の直臣になっていたものと考えられます。
信長の直臣、明智光秀
比叡山焼き討ちから数年、「陰謀将軍」と呼ばれた将軍足利義昭は諸国の有力大名に信長打倒の密書を送るとともに、自ら信長打倒の兵を挙げます。このとき光秀は信長方の武将として働き、義昭と完全に袂を分かちます。
敗れた義昭は京都を追放され、室町幕府は名実ともに滅亡します。
この後長篠の戦い、近畿での一向宗との戦いなど信長に付き従って数々の武功を挙げます。そしてついに信長から丹波国の攻略を任されます。
信長の家臣団で一国の攻略を任されている家臣は、能登・加賀を攻める柴田勝家、播磨を攻める羽柴秀吉、畿内で一向宗を攻める佐久間信盛らで、彼らは皆織田家中における重臣ともいえる存在です。その連中と肩を並べたのです。
とはいえ、丹波攻略に専念できたかといえばそうではなく、信長の命令によって、他の地方への援軍や一向宗との戦いへの参戦など、フル回転の働きをします。
織田信長の政略・戦略
ここで信長の政略と戦略を見てみたいと思います。
信長の戦いといえば、まず思い出されるのが桶狭間の戦いです。少数の兵で敵を奇襲し、駿河・遠江・三河を支配していた大名今川義元を討ち取った一戦です。
しかしその後の信長の戦いを見るとほとんどの場合、敵よりも多い兵を集めて戦場に臨んでいます。
これは戦いの王道であり、少ない兵で多い兵に勝つためにはよほど恵まれた条件が必要であることを熟知していたからだと思われます。桶狭間の戦いも天候や土地などの条件に加え、敵の油断があったから勝てたので、それが特別なものであることを理解していました。
また自らの軍団の中心である尾張の兵は周辺他国に比べると弱く(例えば上杉氏の越後兵、武田氏の甲州兵など)、数で上回ることは絶対条件だったかもしれません。
信長は後に「信長包囲網」と呼ばれるように四方に敵がいました。(周辺国で同盟を結んでいたのは徳川家康のみ)それらをいかにして片付けていくかが大きな課題でした。
そこで信長は外交を巧みに利用します。遠隔地にいる武田信玄や上杉謙信には莫大な贈り物を送り修好につとめ、近隣の敵である浅井・朝倉連合に対しては戦いをもって臨み、戦いが不利になると将軍義昭や朝廷の威光を利用して一時的に和議を結ぶなどしています。
こうして敵対勢力の一部と一時的に平和を生み出し、それによって生じる余剰の兵を他方面に使うやり方で、個別撃破をしていきました。まさに「遠交近攻」を実践していたのです。
またその個別撃破もちゃんと優先順位をつけていました。例えば長篠の戦いに大勝利し、武田勝頼に大打撃を与えましたが、すぐには甲信越に兵を進めることはしませんでした。なぜなら畿内に一向宗を中心とした反信長勢力が残っていたからです。
信長はそれらの勢力を抑え込み足元を盤石にしたうえで、長篠の戦いから約6年後に甲信越に大軍で攻め込み、武田氏を滅ぼしました。
信長が急速に天下布武に向けて動けたのも、この硬軟織り交ぜた政戦略があってのことなのです。
織田信長の人柄
信長と言えば超のつく合理主義者、短気で冷酷非情なイメージがありますが、それはある一面を伝えているにすぎません。上記に書いた通り、目的を達成するためにはぐっと我慢をするような辛抱強さも持ち合わせています。もちろん家臣にはとても厳しく、大きな成果を要求しました。
しかしそれだけではありません。
ある人物に宛てた有名な手紙が残っています。その一部を現代語に訳してご紹介します。
…(前略)とりわけ、そなたの容貌、容姿は以前にも増してとても美しくなっている。にもかかわらず藤吉郎(秀吉)がしきりにそなたのことで不満を申しているのは言語道断であり、けしからぬことである。そなたほどの女性は、あの禿げ鼠(秀吉)にはもったいないほどである。だからそなたも正室らしく堂々と振る舞い、決して嫉妬などせぬように…なおこの手紙は秀吉にも見せるように。
これは秀吉の妻おね(ねね、後の北政所、高台院)に信長が送った手紙です。手紙の前半の内容からおねが安土城に行き、おそらくそのとき信長に対し夫秀吉の女癖の悪さや自分に不満をぶつけてくることについて愚痴をこぼしたのでしょう、そのことに対しての手紙です。
そもそも主君が家臣の妻に手紙を出すということも珍しいうえ、その内容もまず持ち上げておいて、後にたしなめ諭すという巧みな手法です。このような優しさやきめ細かい対応ができたのが信長という武将の本質だったのではないでしょうか。
まあ、こんなことを天下人である信長に愚痴ったおねという女性も大した度胸です。しかもこの手紙には信長の公式文書を示す「天下布武」の朱印が押されており、これを見せられた秀吉はさぞ驚き、背筋が凍ったのではないでしょうか。
明智光秀、丹波を征服する
話を光秀のことに戻しましょう。
光秀はあちらこちらに転戦させられながらも約4年かけて丹波を征服します。さらには細川藤孝と協力して丹後も征服し、信長から「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と絶賛され、丹波を領地として与えられました。
また1581年に京都で行われた御馬揃え(天皇を招待した閲兵式)において運営の責任者になるなど、信長から絶大な信頼を受けています。光秀はこの信長からの厚遇に対し「一族家臣は末代に至るまで信長様への奉公を忘れてはならない」と文章を残しています。
が…
明智光秀、謀反!「敵は本能寺にあり」
1582年6月、光秀は信長から羽柴秀吉の毛利攻めを支援するよう命じられ、丹波の亀山城で軍備を整えますが、突如その兵を京都本能寺に宿泊中の信長に向けました。
わずかな近習を連れていただけの信長は自害に追い込まれ、本能寺の灰となってしまいました。いわゆる本能寺の変です。
光秀が信長に兵を向けた理由、それはいまだによくわかっていません。これだけの大事件であるために諸説乱立しています。その中のいくつかを以下に挙げてみます。
信長への怨恨説
信長から度々打擲されるなどの辱めを受けたため。
特に有名なのは、武田氏攻略を成し遂げた際に光秀が「我々の長年の骨折りが報われた」と発言したところ、「お前がどんな苦労をしたのだ」と信長が激怒し、光秀に暴行を加えた、という話。
直前まで武田氏攻略の祝福のために上洛していた徳川家康の饗応役を命じられていたが、不手際を責められて面目を失ったため。
信長から料理が腐っていると難癖をつけられ饗応役を外された上、秀吉の援軍を命じられた、という話。
四国の大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)との交渉役を他に奪われたため。
土佐の長宗我部元親とは、光秀が交渉役となり友好関係を保っていましたが、信長の命により交渉役を辞めさせられました。そのうえ信長が四国遠征を実施しようとしたので、光秀が面目を潰されたと憤慨したといわれています。
将来への不安説
自分の将来を不安視したため。
信長は働く家臣には手厚い褒賞を与えましたが、逆に仕事ぶりが悪くなると重臣といわれるような人々でも容赦なく家中から追放しました。
かつて織田家の重臣であった林秀貞や佐久間信盛は過去の過失を理由に追放されており、年齢的にも50歳前後であった光秀は自分の将来を悲観していたのかもしれません。
他に黒幕がいる説
自分が天下を取りたいと考えた羽柴秀吉が光秀を唆したため。
信長が早晩朝廷を滅ぼすのではないかとの不安から、公家が親しくしている光秀に信長討伐を命じたため。
イエズス会がカトリック教国であるスペイン・ポルトガルの植民地政策に信長の存在が邪魔になると考えたため。
などなど…
とにかく山ほど説があります。今のところ真実は闇の中であり、今後も明らかになることはないのかもしれません。
とにかく信長を討ち果たした光秀は次の行動に移るのですが…
焦る明智光秀 味方が集まらない!
光秀は京都を押さえ、さらに信長の本拠安土城を占領し、近江の大半を手中に収めます。しかしなかなか周辺の大名たちは光秀の元に来ません。
一つには信長の首を挙げられなかったため(本能寺が全焼し遺体の確認ができなかったといわれています)信長生存説が流れ、それが他大名に心理的に影響し光秀に味方することをためらわせたともいわれています。
事実、羽柴秀吉は摂津にいる織田家家臣の一人中川清秀に、信長は無事に逃げ今は近江にいるという旨の嘘の書状を送り、のちに清秀を自分の味方に引き入れることに成功しています。
光秀の与力(織田家の直臣であるが、光秀から命令を受ける大名)であった筒井順慶(じゅんけい)も光秀には積極的には加担せず、現在の京都府と大阪府の境にある洞ヶ峠に布陣をしたものの、それ以上兵を動かさず形勢を静観していたといわれています。
日和見をすることを「洞ヶ峠」というのはこのことに由来しています。ただしこの故事は、順慶の参陣を促すために光秀が洞ヶ峠に布陣したのですが、結局順慶は自分の城である大和郡山城を動かず、あくまでも形勢を静観する姿勢を貫いたというのが真実であるといわれています。
光秀の古くからの盟友であり姻族であり与力でもあった細川藤孝・忠興(ただおき)の親子も光秀からの誘いを断りました。
細川親子は髪を切り信長への弔意を明らかにし、また忠興は光秀の娘(後の細川ガラシャ)を娶っていましたが、彼女を幽閉してまで拒絶の姿勢を見せました。
藤孝は光秀の下に武将たちが集まらないのを見て光秀に将来はないと判断したとも、今は与力となっているものの、もともとは同僚(もしくは自分の方が上位)であることから光秀の下に立つことをよしとしないと考えたともいわれています。
これらの事態、特に細川氏の拒絶は光秀にとっては想定外であり、大きな誤算であったかと思われます。
このときの光秀の心境を表す逸話があります。
明智光秀流、粽の食べ方
本能寺の変から数日後、光秀は京の町民から粽を献上されましたが、光秀は外をくるむ笹の葉をむかずにそのまま口にした、と言われています。
味方が集まらないことへの焦燥感が出てしまったのでしょうか。この光景を見た京都の民が光秀の天下は長くないとその器量の小ささを笑い、光秀を見限ったといわれています。
別の説もあります。
本能寺の変前に光秀が連歌会を開催し、その際に出てきた粽をそのまま口にした、と言われています。
いよいよ打倒信長に立ち上がる興奮を抑えきれなかったかのようにも見えます。
ちなみにこの連歌会において光秀は次のような発句をしました。
“時は今 雨も下知る 五月かな”
これは時を土岐に、雨を天と置き換えると、「土岐一族の自分が天下に号令する」という意味を込めていたのではないかといわれています。
この当時の粽
当時砂糖は大変貴重なものであり、ほとんど流通していなかったといわれています。したがって光秀が食べた粽というのは、笹の葉にもち米を包んで蒸しただけの、ごくシンプルなものであったようです。粽は殺菌性に優れているため、主に戦場での保存食として携行されることが多かったようです。
ちなみに粽は中国が発祥で、平安時代にはすでに伝わっていたと記録にあります。元祖中国では戦国時代楚の政治家で詩人としても知られる屈原(くつげん)が、王を諫めたが聞き入れられず左遷され、国が傾いていくのを悲観して入水自殺してしまいました。
このことを民衆が悼み、屈原の無念を晴らすため、またその亡骸を魚がついばまないように魚のえさとして、笹の葉に米を包んで川に投げ込んだのがその由来とされています。
日本ではその後独特の変化を遂げています。関西では細長い円錐形に笹で包まれた食品で、現在ではもち米だけでなく、葛や餡などを使って和菓子として発展しました。おそらく光秀が口にしたのはこの形状の粽でしょう。
新潟あたりではもち米を三角形に笹で包んでお湯で茹でた「三角ちまき」が知られています。こちらはきなこ・餡などをつけて食べるそうです。
また九州南部鹿児島には「あくまき」と呼ばれる、もち米を竹の皮で長方形に包み、灰汁(あく)で煮込んだものがあります。もち米はべっ甲色になり、独特の弾力がある「あくまき」も三角ちまきと同様に砂糖やきなこ、醤油などをつけて食べるそうです。
京都の祇園祭では厄除けなどのお守りとしてちまきを販売しています。(食用ではありません)
また粽は東南アジア諸国にも伝わり、主食としてまたデザートとして愛されています。
話を光秀に戻しましょう。
天下分け目の一戦 山崎の戦いと明智光秀のその後
京都で味方集めに苦戦していた光秀に衝撃の情報が入ります。中国地方で毛利氏と対峙していたはずの羽柴秀吉が京都に迫っているというのです。
この当時信長旗下の主な軍団は、柴田勝家が北陸地方で上杉氏と、羽柴秀吉が中国地方で毛利氏とそれぞれ対峙し、滝川一益(かずます)は関東地方で戦後処理に追われていたため、光秀は彼らがそう簡単に引き返して来られるはずがないと考えていました。
その間に周囲の大名を味方につけ、さらに信長軍団と対峙する大名と提携して彼らを挟み撃ちにすることを思い描いていたに違いありません。
しかし秀吉はいち早く本能寺の変の情報を得ると毛利氏と和議を結び、軍を反転してきたのです。いわゆる「中国大返し」です。
現在の岡山県岡山市あたりに布陣していた秀吉軍は山崎の戦場まで約200キロの距離を10日ほどで移動したといわれています。
現代なら新幹線で京都駅~岡山駅間は約1時間の距離ですが、当時は道も十分に整備されておらず、また兵士たちは甲冑を身につけており、当時としては常識外れの行軍速度でした。
また秀吉はこの間に、秀吉の本拠地姫路と京都の間にある摂津国にいる信長の家臣団や信長の三男信孝(のぶたか)と織田家の重臣丹羽長秀(にわながひで)を味方につけることに成功し、光秀を圧倒できるだけの兵を確保しました。
秀吉にとっては、光秀に足場固めをする時間を与えないよう迅速な行動が必要だったのです。
光秀は慌てます。とにかく兵を集めて秀吉に対抗する必要がありましたが、新たに集めた兵は士気も低く、数も秀吉軍に劣っていました。
羽柴秀吉が中国大返しを成功させた要因
秀吉は信長横死の情報を手に入れると情報管制を徹底し、この情報が毛利方はもちろんのこと自軍内にも漏れないようにしました。自分に不利な情報をひた隠しに隠して、かつ条件を緩めて協議を行い和議を成立させました。
毛利方が信長の死に関する情報に接したのは秀吉が撤退をした翌日だったといわれています。
これに対し毛利方には秀吉を追撃するべしとの声が当然ながら上がりました。しかしそれを毛利家の当主輝元の叔父であり、事実上の執政官であった小早川隆景が制止します。
このため秀吉は後顧の憂いなく退却することができたのです。隆景は秀吉の人物を高く評価しており、秀吉が信長の後継者になると踏み、それならばここで恩を売っておくのが毛利家のためになると考えていたようです。
このことがあったゆえに秀吉が政権の座に就いたとき毛利家、特に小早川隆景を優遇したといわれています。
そして羽柴・明智の両軍は山崎(現京都府乙訓郡大山崎町、大阪府との境)で激突します。よくスポーツなどで大事な一戦を「天王山」と言いますが、それはこの山崎の戦いにおける天王山の攻防戦がその由来です。(もっとも史実では天王山を巡る攻防はなかったのではないかといわれていますが…)
戦いは兵力で勝る秀吉軍優位に進み、善戦したものの光秀は敗れてしまいます。そして本拠地坂本城へ向けて敗走しますが、その途中で落ち武者狩りの農民の手にかかり落命したとも自害したともいわれています。
わずか13日の天下でした。これがいわゆる「三日天下」です。この場合の三日は実際の日数を表しているのではなく、短いごくわずかな時間という意味です。
その後羽柴秀吉は信長の後継者として、天下統一に邁進します。
一方光秀はその首を晒され、天下の笑い者になった…なんとも残念な話です。
が、実は生存していたという説もあります。
明智光秀は生きていた?
光秀は姿を変えて生き続け、天台宗の僧となり南光房天海(なんこうぼうてんかい)と名乗り徳川家康に仕えた、という説です。
天海は家康のブレーンとして宗教面での助言や朝廷との交渉を受け持ち絶大な信頼を勝ち取り、また家康の死後は家康を「東照大権現」の名で祀るべき旨の提言をし、それが採用されています。
そして大坂の陣において家康の手を使って豊臣氏を滅ぼし、山崎の恨みを晴らした、というものですが現在のところこの説は確たる根拠はなく、伝説として語られる程度のものでしかありません。(天海についてはこちら:津軽の動く城~東北随一の名城と隠れた名将のコラムもどうぞ。)
「謀反人」の代名詞 明智光秀
戦国時代は下克上の時代であり、家臣が主君を倒すという例は他にいくらでもあります。なぜ明智光秀がここまで悪名を着せられたのかを考えてみます。
討った相手が乱れた天下を統一しかけていた織田信長であったこと。
そんじょそこらのケチな相手ではなく、その時代を代表する人物に反旗を翻したからです。
信長の後継者であることを強調したい羽柴秀吉が上手く宣伝したこと。
その後、織田家の一家臣に過ぎない秀吉が信長の後継者の地位に収まります。その過程で秀吉は自分が主君の仇を討った事実を存分に利用したからです。
江戸時代に官学となった朱子学の影響。
朱子学においては「上下定分の理」(じょうげていぶんのり)、すなわち人間の上下関係を守ることを重要視しており、家臣が主君に刃向かうことを許していなかったからです。
他にもあるかもしれませんが、とにかく悪く利用されたことは間違いありません。
明智光秀、その謎は永遠に…
明智光秀は非常に有能な武将であり、短期間のうちに織田家中でも異例の出世を遂げています。信長からも厚い信頼を寄せられていました。また領民からも慕われ、内政面でも高い手腕をもっていたようです。
それがなぜ?小説やドラマでは、さきに挙げた怨恨説を採っているものが多いようですが、その程度のことで主に刃を向けるでしょうか?
また信長を討ってからの動きも決して敏速であったとはいえず、果たして計画性があったのかどうかにも疑問が残ります。
光秀が信長を討った理由。それは光秀自身しかわからないのかもしれません。
執筆:Ju
なんでそんなことがわかるんんですか。「なんとかこじつける学者」と書いてありますがあなたもそうなのではないのですか。討ってないと言い切るのはよくないと思います。言い切りではなく「と思います」をつけましょう。
同意見
この本を読んで納得のいく答えが出ました
https://www.amazon.co.jp/%E7%B8%84%E6%96%87%E3%82%92%E5%89%B5%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%94%B7%E3%81%9F%E3%81%A1%EF%BD%9E%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%80%81%E7%A7%80%E5%90%89%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E5%AE%B6%E5%BA%B7%EF%BD%9E-%E4%B8%8A%E5%B7%BB-%E3%81%95%E3%81%8F%E3%82%84-%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%BF-ebook/dp/B08DXR3GRS/ref=mp_s_a_1_2?crid=RIH2I32YXXPM&keywords=%E7%B8%84%E6%96%87%E3%82%92%E5%89%B5%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%94%B7%E3%81%9F%E3%81%A1&qid=1671713336&sprefix=%E7%B8%84%E6%96%87%2Caps%2C249&sr=8-2
光秀は信長を討っていません。秀吉が先に殺し死体を隠していたので死体も出ませんでした。中国地方から帰ってくるのも異様に手際が良すぎます。又近隣の大名達に「信長様は生きているから光秀の味方をしないように」とは、現代の電話、ラインのない時代、早馬如きで刻々と変わる情勢を把握できないから言い切れません。それに信長が生きているなら毛利と和睦したら信長に殺されるでしょう。秀吉が先に殺していたと考えると全ての矛盾が解決するのに、光秀ありきで考えるから、なんとかこじつける学者含めばかりです。
意味わからん