佐々木道誉(どうよ、正確には導誉)という武将をご存知でしょうか?鎌倉時代後期に生まれ、足利尊氏に従って建武の新政の樹立に功を挙げ、また尊氏が室町幕府を樹立するとそこでも功を挙げ、尊氏没後も室町幕府で権勢を誇りました。
またこの時代の風潮であった「婆娑羅」(ばさら)の体現者としても知られています。そんな道誉の人生を、逸話を交えて振り返ってみたいと思います。
足利尊氏については、こちら:日本史上最悪だった男~足利尊氏もどうぞ。
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婆娑羅とは?
この「婆娑羅」という言葉、みなさんはどこかで耳にしたことがあると思います。奇抜、派手、傍若無人といった意味を想像されることでしょう。
Wikipediaによれば、
身分秩序を無視して実力主義的であり、公家や天皇と言った時の権威を軽んじて嘲笑・反撥し、奢侈で派手な振る舞いや、粋で華美な服装を好む美意識
とあります。
つまりは、先例などを無視して傍若無人に振る舞い、派手な生活を送る武将たちのことを指しています。
語源はサンスクリット語の伐折羅(ばじゃら、ダイヤモンドのこと)とも、婆娑という単語(舞う人の衣装の袖がひるがえる姿、徘徊するさまの意)ともいわれています。
道誉のほかには、尊氏の執事であった高師直(こうのものなお)や土岐頼遠(ときよりとお)などがおり、彼らは単に派手な生活を送るだけではなく、戦場においては無類の働きをしたという共通点があります。
佐々木道誉、近江の地に誕生す
道誉は近江源氏佐々木氏の一族で近江の地で地頭を務める京極(きょうごく)氏の家に生まれ、鎌倉幕府に仕えます。したがって本名は京極道誉なのですが、佐々木姓がよく知られていますので、ここでは佐々木道誉と呼ばせていただきます。
左衛門尉(さえもんのじょう)に任官したため、佐々木判官(はんがん)と呼ばれることもあります。
道誉というのは出家後の名前であり、俗名は高氏といいます。これは鎌倉幕府の執権北条高時の高の字を与えられたものです。高時が出家したときに共に出家し、法名として道誉という名を名乗るようになります。
ちなみに室町幕府の創始者である足利尊氏も最初は高氏と名乗っていました。
足利高氏も道誉と同じく北条高時から高の字を与えられたのですが、後に後醍醐(ごだいご)天皇から天皇の諱(いみな)である「尊治」(たかはる)から尊の一字を与えられ、尊氏と改名することになります。
同名だった道誉と尊氏とは生涯の盟友のような存在として、行動を共にしていくようになります。
幕末の動乱期~佐々木道誉はいかに振る舞った?
鎌倉時代も後半になると、元寇(げんこう)での恩賞が不十分であったことなどから、幕府への不平不満の声が大きくなっていきます。
そのような中、後醍醐天皇は政権の座を幕府から奪還するべく兵を挙げます。元弘(げんこう)の乱と呼ばれる事件です。
しかし失敗して後醍醐天皇は捕らえられ、隠岐の島に流されることになります。このときに幕府の命令により後醍醐天皇の配流の警護をしたのが道誉でした。
後醍醐天皇が配流されたのちも関西地方では楠木正成(くすのきまさしげ)や後醍醐天皇の皇子護良(もりよし、もりなが)親王らが抵抗を続け、倒幕の機運が高まっていきます。
このような中、有力御家人であった足利尊氏は幕府の命令により乱鎮圧のため京に派遣されます。しかし尊氏は後醍醐天皇の綸旨(りんじ、天皇から下された命令書)に応じ、赤松円心(あかまつえんしん)らと共に鎌倉幕府の軍事出先機関である六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め滅ぼします。
このとき道誉は尊氏に同調し、六波羅探題を攻めます。このとき六波羅にいた光厳(こうごん)天皇らを捕らえ、天皇の証しともいえる「三種の神器」を手に入れたといわれています。
「三種の神器」とは天照大御神(あまてらすおおみのかみ)が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けた八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)のことです。
この尊氏の寝返りは道誉の進言もあったようです。後に触れることになりますが、道誉の謀略好みはこの頃からあったのかもしれません。
当初は幕府の命令を忠実に実行していた道誉ですが、時勢の変化を敏感に察するとあっさり後醍醐天皇に味方をして、勝者の一員となりました。
この当時の天皇家
後醍醐天皇や光厳天皇が並んで出てきて少々ややこしいと思いますので、ここで当時の皇室について簡単に説明をしておきたいと思います。
鎌倉時代後期に皇室では後継者問題が起こっていました。後嵯峨天皇の二人の息子の間で起こったこの争い(持明院統と大覚寺統)の解決を朝廷は鎌倉幕府に持ち込み、幕府は和解案を提示します。
それはそれぞれの系統が交互に皇位を継承していく、というものでした。これを両統迭立(りょうとうてつりつ)といいます。
後醍醐天皇は元弘の乱において島流しになったことで退位、持明院統の光厳天皇が即位します。
しかし鎌倉幕府の滅亡により後醍醐天皇が復位して、光厳天皇は退位させられ上皇として遇されることになりました。
厳密にいえば、後醍醐天皇はそもそも自分の退位と光厳天皇の即位を認めておらず、特別に光厳天皇を上皇として認めるということになっています。(天皇に即位していなければ上皇になることはありえません)
建武の新政下における佐々木道誉
話を戻しましょう。
この後鎌倉幕府と北条氏は新田義貞の攻撃により滅亡し、後醍醐天皇による親政-すなわち建武の新政が始まります。道誉は功により新政府において重要な地位を与えられました。
しかしこの建武の新政は長続きしません。その最大の原因は恩賞が不公平で、特に武士は多くの者が冷遇されていると感じたため不満が大きく、各地で新政府に対する反乱が頻発するようになりました。
中でも北条氏の残党が起こした中先代(なかせんだい)の乱では、反乱軍が鎌倉を攻め落とすなど、破竹の勢いで関東を戦乱の渦に巻き込んでいきます。この動きに対し足利尊氏は天皇の許しを得ずに関東に出陣し、乱を鎮圧しました。
そして尊氏は鎌倉を拠点として、尊氏の下に馳せ参じてきた武士に対し自ら恩賞の配分を行い、独自の政権運営を始めます。
道誉も尊氏に従って関東に出陣します。尊氏は当初、後醍醐天皇に背くことになる関東出陣をためらったようです。しかしここでも道誉がその背中を押したともいわれています。
室町幕府成立と佐々木道誉
尊氏の動きは自分の政治に対する背信行為であると考えた後醍醐天皇は、新田義貞に尊氏を追討するよう命を下します。
道誉は尊氏に従って戦いますが、大軍の新田軍に敗れ降伏し一度は新田方として尊氏攻撃の陣に加わります。しかし戦況が尊氏方に傾くと、あっさり義貞を裏切り尊氏の下に帰参しました。
この後尊氏軍は勢いに乗って京都に攻め入り占領しますが、今度は逆に北畠顕家(きたばたけあきいえ)らの軍に攻め込まれて尊氏らは九州に下向します。道誉は九州に共に下向したとも本拠地である近江に潜伏したともいわれています。
一度は九州にまで落ちたものの、ここで勢力を回復した尊氏は湊川の戦いで新田・楠木連合軍を撃破して、わずか数か月で再び京を手中に収めることに成功しました。
そして新たに光厳上皇の弟光明(こうみょう)天皇を即位させて尊氏は征夷大将軍となり室町幕府を成立させます。これが北朝です。
一方後醍醐天皇は吉野に本拠地を構えて南朝を樹立し、ここに二人の天皇が並立する南北朝時代が始まります。
道誉は尊氏に従った武将として重用されますが、ぼちぼち婆娑羅な面が浮き彫りとなってきます。
佐々木道誉の婆娑羅な振る舞いその1~逆恨みで寺を焼き討ち
ある日道誉が妙法院という寺院の前を通りかかると、見事に色づいた紅葉した木がありました。生け花の名手でもあった道誉は家臣に命じて、枝を1本取ってくるように命じました。
しかし妙法院の僧兵は枝を折ろうとしたその家臣を捕らえて、暴行を加えました。これに怒った道誉は兵を率いて妙法院を取り囲み、なんと焼き討ちにしてしまいました。
妙法院は代々皇族が門跡(住職)を務め、比叡山延暦寺につながる天台宗の寺院でした。
たちまち大問題となり、延暦寺や朝廷から道誉を厳しく罰するように室町幕府に要求があがります。そこで幕府は道誉を上総(かずさ、現千葉県)に配流することにしました。
道誉は幕府の命令に従いましたが、この下向の姿がまさに婆娑羅ぶりを表していました。下向途中のあちらこちらで派手に宴会を催し、供たちは皆あてつけるかのように比叡山の神獣である猿の毛皮を腰当てにしていました。
とても刑に服す人の行いではありません…
この当時の寺院-特に延暦寺の流れを汲む寺院は、自分の権威を守るために僧兵を動かしたり、朝廷に働きかけたりして支配者層には厄介な存在でした。(そのコラムはこちら:敵は本能寺にはいなかった?~明智光秀の生涯)
室町幕府は、処罰をすることについては寺院側の要求は聞き入れているものの、量刑については幕府が決め、寺院側の要求は退けています。(寺院側は死罪を要求したともいわれています)
また1年後には何食わぬ顔で道誉は京に帰ってきているので、焼き討ちは寺院の政治干渉に手を焼いた幕府の暗黙の了解があったのではないかともいわれています。
いずれにせよ、道誉は当時の寺院の権威を派手な行動で否定したのです。
婆娑羅な武将~土岐頼遠
さきに婆娑羅を代表する一人として土岐頼遠の名前を挙げました。頼遠は戦上手であり、和歌にも通じた文化人の側面もあり、道誉に似た人物であったといえます。
その頼遠も大きな事件を起こします。それは頼遠が酒に酔った勢いで光厳上皇の乗る牛車に対して矢を射かけたというものです。
このとき頼遠は「院のお通りである」という言葉を聞くと、「院というか。犬というか。犬なら射てしまえ。」と言ったといわれます。酒の勢いとはいえ、困ったものです。
これを知った尊氏の弟直義(ただよし)はこの行為に激怒、頼遠を逮捕するよう命令を出します。
なぜならば道誉の場合と異なり、光厳上皇は兄尊氏に征夷大将軍の位を授けた当人であり、その人物に狼藉を働くのは室町幕府の権威を否定することになりかねないと直義が考えたからです。
直義は生真面目な人柄で、婆娑羅の風潮を嫌っていたといわれています。直義が中心になって制定した「建武式目」(室町幕府の施政方針、法令)では婆娑羅を禁じているほどです。
以下は建武式目にある条文です。
一、倹約を行わるべきこと
近日婆娑羅と号して、専ら過差を好み、綾羅錦繍、精好銀剣、風流服飾、目を驚かさざるはなし、頗る物狂といふべきか、富者はいよいよこれを誇り、貧者は及ばざるを恥づ、俗の凋弊これより甚しきはなし、もっとも厳制あるべきか。
ごく簡単に要約すれば、近頃婆娑羅といって派手な外見や振る舞いをする者がいるようだが、このようなことは世の中をおかしくするものなので、厳しく取り締まるべきである、といったところでしょうか。
頼遠は逮捕され、助命の声も上がったものの、結局処刑されてしまいました。(ただし土岐氏そのものは存続を許され、頼遠の甥が家督を継ぎます。)
観応の擾乱と佐々木道誉
南北朝の争いは武力に勝る北朝の優位で推移しますが、いつしか幕府内部で抗争が起こります。観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれるものです。
具体的には尊氏の弟直義と尊氏の執事高師直の対立です。直義は兄の公認の下、実質的に幕府の政治を取り仕切っていました。
一方師直は南朝との戦いで数々の功を挙げ、その軍事的貢献は幕府一の実力者でした。
鎌倉武士の真面目さを持つ直義と婆娑羅な師直。衝突するのは当然のことだったのかもしれません。
両者の対立は日増しに激しくなり、ついに師直が尊氏を担いだ軍事クーデターにより直義を幽閉し、権力の座から追い落します。
しかし直義は都を脱出して反師直勢力を結集しこれを打倒、師直とその一族を滅ぼして権力の座に返り咲きました。
しかし今度は尊氏・直義の兄弟が対立するようになり、最後には尊氏が直義を倒し(毒殺したという説もあります)、征夷大将軍としての地位を確立するに至ります。
この間道誉は一貫して尊氏の側につき、結果幕府内での影響力を絶大なものとします。
婆娑羅な武将~高師直
師直は足利家の執事として仕える家に生まれ、尊氏を補佐して特に軍事面において室町幕府を支えました。師直もまた古い権威を頭から否定する人物で、あるとき
「王だの院だのは必要なら木彫や金で作り、生きているそれは島流しにでもしてしまえ」
と発言したといわれており、この時代の傍若無人の代表とされています。
高師直の横恋慕~『仮名手本忠臣蔵』の悪役
師直は塩冶高貞(えんやたかさだ)という武将の妻に横恋慕し、『徒然草』の筆者として知られる吉田兼好にラブレターを代筆させて気を引こうとしました。
しかしあっさりと拒絶されてしまい、これを逆恨みした師直は高貞に謀反の罪を着せて塩冶一族を滅ぼしたといわれています。
歌舞伎で有名な『仮名手本忠臣蔵』はいわゆる赤穂事件をこの事件になぞらえて描いています。赤穂事件を直接的に描くことは江戸幕府から処罰されるおそれがあったため、別の事件に置き換えたのです。
ちなみに吉良上野介(きらこうずけのすけ)が高師直(吉良家は江戸幕府で高家と呼ばれる役職であった)、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が塩冶高貞(浅野家の領土赤穂は塩の産地として有名)に擬されています。
このままでは師直は悪逆非道の人になってしまいますので、ちょっといい話を紹介します。
鎧なぞ惜しくはない~高師直の心意気
ある戦いで陣を張る師直のもとに上山という配下が訪ねてきました。
いきなり敵に襲われたため平装のままであった上山は、目の前にあった師直の鎧を拝借して戦おうとしましたが、他の家臣にこれは殿の鎧である、と止められてしまいました。
そこに師直がやってきて「今、師直に代わって戦おうとする者に、鎧一領ごときを惜しもうか」と言い、その鎧を上山に与えました。
この戦いで師直は苦戦し命の危険にさらされましたが、そこに鎧を拝領した上山が現れ奮闘し、師直の身代わりとなって戦死したといわれています。
尊氏死後の佐々木道誉~幕府の陰の実力者
尊氏が没すると嫡男の義詮(よしあきら)が征夷大将軍を継ぎます。
道誉は義詮からも絶大な信頼を寄せられ、政治に直接タッチするというより義詮を補佐する執事(後の管領)の任命権を握りました。
自らの意に適う人物を選び、それを実行させることで自分は手を汚さないという、なんともずるいポジションに座ったのです。
佐々木道誉の婆娑羅な振る舞いその2~敵武将へのおもてなし
道誉が任命した執事に細川清氏(ほそかわきようじ)という武将がいました。細川氏は足利氏の一門であり、清氏自身も南朝との戦いに功を挙げ道誉とも協調関係にあったため、道誉の意向で執事に任命されました。
しかしいざ清氏が執事になると強引な政治姿勢で周囲と対立を深め、また推薦者であった道誉との関係も悪化していきます。
そこで道誉は謀略を仕掛けて清氏を執事の座から追い落しました。身の危険を感じた清氏は南朝に投降してしまいます。
後に清氏は南朝の武将として楠木正儀(くすのきまさのり、楠木正成の三男)らと共に京に攻め込み占領することに成功します。
このとき道誉は自らの館を、賓客をもてなすかの如く清め、花を飾り、さらに酒を用意して残す館の人間に南朝の武将が現れたら酒をすすめるように指示して、京を去ります。
そしてその屋敷にやってきたのが楠木正儀でした。正儀はこの様を見ると、道誉の粋な計らいに感激し何も略奪しないばかりか、後日自分たちが京を追われることになった際に秘蔵の太刀と鎧を礼としてその館に残し京を去ったそうです。
新たな執事と佐々木道誉
細川清氏を執事の座から降ろすと、道誉は後任に自分の娘が三男氏頼に嫁いでいる関係から斯波高経(しばたかつね)に白羽の矢を立てます。
しかし斯波氏は足利家一門の中でも家柄が高く、将軍家と同格であると考えていた高経は執事になることを辞退します。ここまでは道誉の計算通りでした。
しかし高経は道誉の意向に反して、道誉の娘婿にあたる氏頼ではなく、まだ少年であった四男義将(よしまさ、よしゆき)を執事に据えて自分が後見するという形をとり、道誉をけん制します。
思わぬ形で道誉は高経の下風に立たされてしまったのです。そしてさらに追い打ちをかけるような事態が起こります。
高経は道誉に五条に橋の建築を依頼します。しかし工事が遅れたため、高経は自分の手で橋を架けて道誉の面目を潰します。
婆娑羅の代表佐々木道誉がこれで収まるはずがありません。復讐の機会を虎視眈々と狙います。
佐々木道誉の婆娑羅な振る舞いその3~復讐の花見
道誉は高経が将軍義詮の邸宅で花見を主催するという情報を聞きつけました。道誉は出席を申し入れたものの、高経の面目を潰すべく婆娑羅大名らしいド派手な復讐を用意します。
道誉はその花見の直前に欠席の連絡をし、別の場所で花見を主催したのです。
しかもこの花見は京の貴人、芸人たちを根こそぎ招き、贅沢の限りを尽くしたといわれ、京の人々に“世に類無き遊”と謳われるほどで、高経の面目を丸潰しにしました。
これで意趣返しを果たした道誉は、今度は政治の表舞台で高経を失脚させることに成功し、後に名管領と呼ばれるようになる細川頼之(よりゆき)を後任に据えました。この後将軍足利義詮が没し、後を義満が継いだのを見届けると自らも政治の表舞台を去り、その数年後この世を去りました。
文化人、佐々木道誉
このように権謀術策に長けた道誉ですが、それだけではありません。文化・芸術をこよなく愛し、こちらの方面でも婆娑羅ぶりを見せ、後世にさまざまな足跡を残しています。
佐々木道誉は華道の祖?
現代に通じる華道は、道誉がこの世を去った後の室町時代中期ころに確立されたといわれています。道誉は自分の流儀や考えを『立花口伝大事』という書物に残しています。
これは現存する華道の伝書としては最古のものといわれており、後の華道の発展に大きな影響を残していると考えられます。
上で述べた意趣返しの花見において、実際の桜を真鍮でつくった花瓶に生けたように見せるなどスケールの大きなことをやって、人々を驚かせたようです。
連歌の名人、佐々木道誉
連歌というのは平安時代末ごろから始まったとされ、和歌の五七五七七の構成を複数の作者が作るものです。特に南北朝から室町時代には大変盛んであったといわれています。
道誉は連歌においてもその才能を遺憾なく発揮し、この時代の連歌の大家と呼ばれた二条良基(よしもと)から絶賛され、「道誉風」と呼ばれる道誉の真似をした作風が流行したこともあったようです。
能にも影響を与えた佐々木道誉
道誉は猿楽(現在の能楽)を熱心に保護したといわれています。この時代に猿楽を大成したのが観阿弥(かんあみ)とその子世阿弥(ぜあみ)でした。
特に息子の世阿弥に対して、道誉が昔の猿楽の達人たちの芸について教えを施していたという記録も残っているほか、世阿弥の著書『風姿花伝(ふうしかでん)』などには道誉の影響がみられるといわれています。
九十九髪茄子を掘り出した佐々木道誉
九十九髪茄子(つくもかみなす)というのは茶道で使われる茶入という道具で、茶が武将の間で広がった戦国時代には大名物(おおめいぶつ)といわれ、後に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らが代々所持し、破損と修復を繰り返して現代に伝わっています。
この名器を商人から購入して将軍義満に献上したのが道誉であったといわれています。
当時は後の侘茶のようなものではなく、「闘茶」というお茶を飲んでその銘柄を当てる賭けをともなった遊びで、道誉も大いにこれを楽しんだそうです。
消えた婆娑羅の風潮~佐々木道誉の死後
道誉の死後、婆娑羅という風潮は姿を消しました。その一番の要因は平和な世の中が訪れ、幕府をはじめとした支配者層の統制が強化されたためでしょう。支配者は傍若無人に振る舞う勢力を抑制するものです。
しかし義満が創建した金閣寺の金箔を貼りつめた派手さには道誉の影響があるように思えてなりません。
三代将軍義満の治世下で南北朝が統一され、有力守護大名に対する戦いなどはあったものの、世の中を二分するような戦いが続く状態は応仁の乱まで絶えます。
応仁の乱を経て時代が戦国の世に移り変わると、新たな派手好みな連中が現れてきます。「傾奇者(かぶきもの)」と呼ばれた人々です。
その代表が織田信長であり、豊臣秀吉です。彼らはいずれも古い権威を否定し、新しい世の中を作り上げていきました。
両者とも道誉の血を引く者たちを優遇しました。特に秀吉は、本能寺の変後明智光秀に味方した京極高次(きょうごくたかつぐ)を許し大名として存続させます。(妹を秀吉の側室に差し出したからという説もありますが…)
京極家はその後大名として明治維新まで続くことになります。
信長や秀吉に道誉への尊敬があったと見るのは考えすぎでしょうか?
佐々木道誉と足利尊氏の関係
道誉はこれだけ世の中を嘲弄してきましたが、不思議なことに尊氏とその子孫である義詮には一切逆らうことがありませんでした。
これだけ権謀術策に長け、計算高く、軍事的実力もあればその地位をうかがうくらいの野望があっても不思議ではありません。
一つには足利氏の一門(斯波氏、畠山氏、細川氏、今川氏、吉良氏など)は強大であり、また世の武士たちからの信望を集めていた足利氏と正面切って戦っても勝ち目がないという現実を見る目があったからでしょう。
またこれは推測でしかありませんが、源氏の嫡流であり武家の棟梁である足利氏に実際の政治は任せ、自分はその要を握りつつも連歌や立花(りっか)などの趣味を満喫していたかったのではないでしょうか。
そしてこれも推測ですが、足利尊氏という人間に深い尊敬と好意をもっていたのでしょう。
この時代の第一等の僧侶であり、尊氏と親交があった夢窓疎石(むそうそせき)は尊氏という人間を次のように評しています。(『梅松論』より)
心が強く、合戦で命の危険にあうのも度々だったが、その顔には笑みを含んで、全く死を恐れる様子がない。
生まれつき慈悲深く、他人を恨むということを知らず、多くの仇敵すら許し、しかも彼らに我が子のように接する。
心が広く、物惜しみする様子がなく、金銀すらまるで土か石のように考え、武具や馬などを人々に下げ渡すときも、財産とそれを与える人とを特に確認するでもなく、手に触れるに任せて与えてしまう。
自分とはある意味正反対の鷹揚さと寛容さと無欲さでできた尊氏の懐で世の中を渡るのは、道誉にとっては居心地がよかったのかもしれません。
婆娑羅大名、佐々木道誉
冒頭で婆娑羅大名とは、先例などを無視して傍若無人に振る舞い、派手な生活を送る武将たちと書きました。
しかしこれは一方的かつ批判的な見方であり、道誉たちには自分たち武士の力で新たな世の中を築くのだ、という主張と気概があったのでしょう。
それが目の前にある形骸化した権威(宗教、政治、文化など)を否定する行動に現れていたものと思われます。
同じように婆娑羅大名といわれた土岐頼遠、高師直はいずれも傲慢な振る舞いから敵を作り、それらの人たちの手にかかり滅ぼされました。しかし道誉は敵を作りながらも最後は畳の上で往生しました。
前二者と違い、自らの力を恃みすぎず、一番の権力者(将軍)との信頼関係を保ち、敵の敵を自分の陣営に引き込むような細心さや周到さが道誉にあったからです。
南北朝時代という時代は日本の歴史上、唯一皇室が二つに分かれた時期です。このような混乱した時代を己の価値観と智謀で見事に生き抜いた武将、それが佐々木道誉なのです。
執筆:Ju
本を持っていましたし、彼を憧れの人だと言ってネットでピーアールしていた男性芸能人(詳しい人)もいらっしゃいました。
佐々木道誉いいなぁ、面白い武将だよなぁ!
陣内孝則が大河の足利尊氏で道誉役をしたとき、食えない人物像を演じて、すごく良かったのを思い出します。
面白きもののふなり。
佐々木導誉が好きだと言うタレントか、有名人というほどでもないですが、自分を「ちょっと陣内さんに似てると言って」イラスト付きの本を出版したり、ネットで宣伝したり、詳しく説明していた男性がいましたが、ご存知でしょうか?教えていただければ幸いです。
倉山満氏では?