明治時代以降、横須賀は軍港として栄えてきました。現在も海上自衛隊やアメリカ海軍の基地があり、運が良ければ最新鋭の海軍艦艇を見ることができます。
そんな中で常に同じ場所にある軍艦があります。
それが記念艦「三笠」です。もっとも現在はふ頭にコンクリートで固定されているため、厳密にいえば三笠は船の形をした構造物です。
その三笠が誕生してから今日までどのような生涯を送ってきたのか、今回はそれを紹介したいと思います。
(最終更新日:2023/09/25)
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日清戦争から日英同盟へ
まずは三笠が製造されることになった背景を紹介しましょう。
日本は清国との戦争に勝利し、台湾や多額の賠償金とともに遼東半島を割譲されました。しかし遼東半島を日本が領有することについて、ロシア・フランス・ドイツの三国がクレームをつけてきます。
この三大国に対抗する力のない日本は三国の要求に屈して、遼東半島を清に返還しました。(三国干渉)
ロシアは日本にクレームをつけておきながら、外交で清に圧力をかけて強引に遼東半島の先端にある旅順の租借権を獲得してしまいます。そしてそこに軍港や要塞を建設し、東洋支配の拠点とします。
この事実は日本全体を憤激させ、『臥薪嘗胆』(がしんしょうたん)をスローガンに反ロシア熱が一気に高まります。外交的にはロシアが東洋へ進出することを警戒するイギリスと同盟を結びます。(日英同盟)
そしてロシアと戦争になることが必至であると考えた軍部は、最新鋭の艦隊を作ることを決意したのです。
六六艦隊計画~三笠の誕生
この計画は1896年度から1905年度にかけて戦艦六隻、装甲巡洋艦六隻を建造するというもので、これにより日本はイギリス、フランス、ロシアに次ぐ海軍大国となりました。
この計画の最後に完成したのが三笠です。
当時の日本には大型の艦艇を製造する能力はなく、ほとんどの艦がイギリスで製造されました。イギリスのヴィッカース社で製造された三笠は、排水量1.5万トン、30.5センチの主砲を4門備えた当時世界最大級の戦艦として誕生します。
そして日露戦争勃発の前年に連合艦隊の旗艦となります。旗艦とは艦隊司令長官及びそのスタッフが乗り込む艦で、艦隊の頭脳となります。
ちなみに三笠の名前は奈良県にある三笠山からきています。
六六計画によって製造された三笠以外の艦船は、戦艦「富士」「朝日」「敷島」「初瀬」「八島」、装甲巡洋艦「八雲(やくも)」「吾妻(あづま)」「浅間」「常盤(ときわ)」「出雲(いづも)」「磐手(いわて)」です。
旧日本艦隊が連合艦隊といわれる所以
旧日本海軍の艦隊は連合艦隊と呼ばれていました。もともとは有力艦を集めて、対外有事に備える常設艦隊と老朽艦や小型艦を集めて、領海の警備にあたる警備艦隊の二つの艦隊で成り立っていました。
日清戦争の勃発が近づくと、警備艦隊も戦争のために動員するため、二つの艦隊を統合して運用するために組まれ、これを「連合艦隊」と名付けたのが最初です。
その後は戦争や演習のときに組まれることになっていましたが、1923年以降は連合艦隊が常設されるようになります。
第一艦隊は上記の6隻の戦艦、第二艦隊は上記の6隻の装甲巡洋艦でそれぞれ編成され、対ロシア艦隊の中核を形成しました。
日露戦争勃発~連合艦隊旗艦三笠出港
ロシアは旅順にいる太平洋艦隊(旅順艦隊)とロシア本国にいるバルト海艦隊(バルチック艦隊)が主要な海上兵力となっていました。
それぞれの兵力は連合艦隊に匹敵する規模であり、ロシアは開戦後バルチック艦隊を日本海に回航することを計画していました。
この両艦隊が合流すれば、連合艦隊の2倍以上の兵力になり、とても日本に勝ち目はありません。
このことを知った日本海軍はバルチック艦隊が回航される前に、旅順艦隊を潰滅させなければなりませんでした。
三笠は連合艦隊の旗艦として出港し、黄海海戦でロシア旅順艦隊と対戦するも完全な撃破には至りませんでした。このとき三笠は20か所以上被弾したといわれています。
連合艦隊は、実際には旅順艦隊にほぼ出航不能となる致命傷を与えていました。しかし日本はその情報を入手できなかったため、最終的に旅順艦隊の潰滅を確認するのは陸軍による旅順要塞攻略を待たねばなりませんでした。
連合艦隊はロシア艦隊の合流という最悪の事態を避けられたものの、日本は戦艦2隻を失ったうえ、残った艦艇も傷だらけの状況でした。
日本海海戦~世界の海戦史に残る大勝利
艦艇の修復を終えた連合艦隊はバルチック艦隊を対馬海峡で迎え撃ちます。連合艦隊はバルチック艦隊の大半の艦艇を撃沈、拿捕することに成功し大勝利を収めました。(日本海海戦)
このとき三笠はZ旗と呼ばれる軍旗を掲げます。この旗とともに「皇国の荒廃この一戦にあり。各員一層奮闘努力せよ。」という有名な文章を各艦に送りました。
司令長官の東郷平八郎は艦隊の指揮を執るため、三笠の指揮塔に立ち続けたといわれています。指揮塔は外にむき出しになっており、敵の砲弾が集中する旗艦でのその行為は大変危険なものでした。
しかし東郷は意に介さず、戦闘が終了するまで指揮塔に立ち続けました。この勝利はロシアの戦意を挫き、ポーツマス講和条約への糸口となりました。
三笠沈没
日露戦争終結直後の1905年9月、三笠は爆発事故により佐世保港内で沈没します。
原因は兵士のいたずらによるもの、「下瀬火薬」と呼ばれる日本が開発した高性能の火薬によるものなど諸説ありますが、真相はわかっていません。
しかし後に引き揚げられ、修理されたのち再び艦隊の旗艦として復帰、第一次大戦やシベリア出兵などにも参加しますが、老朽化は否めませんでした。
世界各国による建艦競争と三笠
日本海海戦の勝利は戦艦に搭載された巨砲の威力というものを知らしめました。
海軍国イギリスはこの教訓をいち早く取り入れ「ドレッドノート」という戦艦を日本海海戦の翌年に竣工します。
従来の戦艦の2倍の火力を誇るこの艦は一夜にしてそれまでの戦艦(三笠を含む)を旧型にしてしまうほど画期的なものでした。
現在でも大きいという意味で「ド(弩)級」「超ド(弩)級」といった表現を使うことがありますが、この「ド(弩)」は戦艦ドレッドノートが由来です。
三笠の引退
大正時代に入っても現役であった三笠も遂に引退のときを迎えます。三笠は老朽化に加え、関東大震災によってダメージを受け、横須賀港を動けない状態になっていました。
さらに当時日本がワシントン軍縮条約を結んだことにより、三笠は廃艦になることが決まり、解体を待つばかりとなりました。
しかし日本海海戦の旗艦として栄光に飾られた三笠の保存を望む声は大きく、条約に基づき現役に復帰できない状態にすることを条件に保存が認められました。すなわち現在の場所で保存されることになったのです。
太平洋戦争中、横須賀は海軍の根拠地であったため、アメリカ軍の爆撃に晒されますが、三笠は被弾することなく生き残りました。
占領下の三笠
日本が敗戦して連合国の占領下に入ると、三笠も世の仇波から逃れることはできませんでした。横須賀の街は娯楽施設が少なかったため、三笠は連合軍の将兵向けのキャバレーとして使われたこともありました。
館内にあった備品や甲板に使われていた木材などが盗難されたりスクラップとして売り払われたりして、栄光の戦艦三笠は見るも無残な姿になっていたといわれています。
また連合国の一員で日露戦争において日本に敗れたロシア帝国の後継国家ソ連は、三笠を解体するべきと主張しましたが、これはアメリカの反対に遭って、解体の憂き目は免れました。
三笠、復元への道のり
日本は敗戦からの復興に必死で、三笠の荒廃に目を向ける人はほとんどいませんでした。しかし国の復興が進んでくると、ようやくこの惨状を回復しようという声が上がるようになりました。
特に三笠とゆかりのある二人の外国人が世論を動かしました。
イギリス人ジョン・ルービン氏
ルービン氏にとって三笠は思い出深い艦でした。というのも同氏が住む街で三笠は建造され、親しみと誇りを持っていました。
1955年、ルービン氏は商用で訪日すると、思い出の艦を見ようと真っ先に横須賀に行きます。しかしそこで見たのは、荒れ果てた無残な三笠の姿だったのです。
ルービン氏は怒りを込めてこの惨状を英字新聞の『ジャパン・タイムス』に寄稿して、大きな反響を呼びました。
アメリカ海軍チェスター・ニミッツ元帥
ニミッツ元帥は太平洋戦争中、アメリカ軍の太平洋艦隊司令長官として日本軍と戦いました。元帥はミッドウェー海戦をはじめ、敵として日本海軍を徹底的に叩きましたが、日本とはゆかりがありました。
日本海海戦の直後、士官候補生として日本に来ていたニミッツ元帥は東郷平八郎と会う機会があり、海戦を大勝利に導いた東郷に深い敬意を払うようになりました。
三笠復元運動が盛り上がりつつあった1958年、要職からは身を引いていたニミッツ元帥は『三笠と私』という文章を日本の雑誌に寄稿しました。
その中で元帥は、
この一文が原稿料に価するなら、その全額を東郷元帥保存記念基金に私の名で寄付させてほしい
と訴えました。すると日本国内でも復元運動が盛り上がるようになります。
また元帥は自らの財産を寄付したほか、アメリカ海軍に働きかけ、スクラップ艦の廃材代金を寄付させました。
さらに後日、寄付金が目標に達していないことを知ると、自分の著書の印税を寄付に充てるなど三笠の復元にニミッツ元帥は多大な貢献をしました。
三笠、復元される
こうして復元のための運動は盛り上がり、1961年に復元工事が完了。そして同年5月27日-戦前の海軍記念日(日本海海戦に勝利した日)-に復元記念式が行われ、現在に至っています。
世界三大記念艦「三笠」
三笠は世界三大記念艦の一つとして世界的に知られています。
他の2隻は、ナポレオン時代にイギリス艦隊の旗艦で、名将ホレーショ・ネルソンが坐乗してトラファルガーの海戦でフランス艦隊を破った「ヴィクトリー」。
米英戦争(1812~15)でアメリカ海軍艦艇として活躍した「コンスティチューション」です。ちなみにこの2隻は共に現役艦艇で、コンスティチューションは航行も可能な状態が保たれています。
三笠はこの2隻よりも新しい船ですが、前弩級戦艦としては現存する唯一の艦です。
三笠公園
現在、三笠は三笠公園の中心として整備されています。この公園の三笠桟橋からは、東京湾に浮かぶ猿島へのフェリーが発着しています。
猿島は明治時代には東京湾を守るための要塞が造られ、現在もその遺構が残されています。
三笠~明治という時代を象徴するもの
明治時代は外国からの侮りから国を守ることが原動力となって誕生し、その克服が時代に課された最大の使命でした。
そして日本海海戦における三笠と連合艦隊の大勝利は、日露戦争全体での勝利を決定的なものとし、それにより日本は列強諸国と肩を並べる存在となりました。
日露戦争後、連合艦隊を解散して通常編成に戻すとき、東郷平八郎は有名な「連合艦隊解散の辞」を海軍将兵に対して読み上げます。その文末にはこうあります。
神明は唯平素の鍛錬に力め(つとめ)戦わずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足し治平に安んずる者より直ちに之を奪う。
古人曰く勝って兜の緒を締めよと。(意訳:神は普段から鍛錬に努め、戦う前に勝利が約束された者に勝利の栄冠を授けるが、一回の勝利に満足して安閑としている者からはすぐさまそれを奪ってしまうものである。昔のことわざにもこうある。「勝って兜の緒を締めよ」と。)
しかしその後日本人は先人たちの苦労や警告を忘れて無謀な戦争へと突き進み、三笠が廃墟になったのと同じように国を滅ぼしかねない危機に陥ってしまいました。そして三笠が復元されたように、日本も焼け野原から復興を遂げました。
横須賀に日本の向上心と復興の象徴、記念艦「三笠」を観に行こう!
その他横須賀市の観光スポットについては、こちらをご覧ください。
世界三大記念艦「三笠」アクセス情報
三笠公園
公式WEB:三笠公園
住所 :神奈川県横須賀市稲岡町82
アクセス:京急横須賀中央駅から徒歩15分
開園時間:8:00~21:00(11月~3月は9:00~20:00)
駐車場 :あり(有料)
TEL :046-824-6291
記念艦「三笠」
公式WEB:記念艦「三笠」
住所 :神奈川県横須賀市稲岡町82-19
アクセス:京急横須賀中央駅から徒歩15分
入場料 :一般 600円、シニア(65歳以上)500円、高校生 300円(中学生以下無料)
開園時間:9:00~17:30 (3月・10月は17:00まで、11月~2月は16:30まで)
※入艦はいずれも閉艦30分前まで
定休日 :12月28日~31日
駐車場 :あり(有料)
TEL :046-822-5225 (三笠保存会)
執筆:Ju
今朝、群馬から取引先と16人で三笠観光に行きました。
乗船したら、三笠の専属ガイドの方、80歳代の男性のお話しに強い嫌悪感を覚えました。
その方は、「あなた方が謝った歴史教育を受け、司馬遼太郎の坂ノ上の雲から嘘を教えられていると、あなた方の無知は戦後教育によるもので、あなた方の責任ではないが、私のように歴史を知る者から学んで欲しい」との雄弁を奮われました。
さらに、「ここにある三笠は、張りぼてのようなもので歴史を伝えるものではない。私の話を聞いて、よく勉強して欲しい」とのことでした。
僕はその方より無知かもしれないけど、自分の歴史観を
他人に押し付けるようなまねはしないと、すべきでないと教えて頂きました。
こんど友達と行こうか