リトアニアにおけるホロコースト / ユダヤ人を救った「日本のシンドラー」杉原千畝物語(7) – Guidoor Media | ガイドアメディア

リトアニアにおけるホロコースト / ユダヤ人を救った「日本のシンドラー」杉原千畝物語(7)

1941年。リトアニア占領後、ナチスドイツに協力するリトアニア内務省警備隊によって検挙されるユダヤ人たち。

リトアニアでのユダヤ人虐殺

兵士たちの様子。武器を構えている者もいる。

リトアニアにおけるホロコースト(ユダヤ人虐殺)では、およそ21万人いたとされるユダヤ人のうち19万5000人から19万6000人が犠牲となり、そのほとんどが1941年6月から12月の間に殺害されたという。

杉原千畝がカウナスから列車でベルリンに向かったのが1940年9月5日。

それからわずか9ヶ月後の出来事であった。

ユダヤ人は、なぜ差別され、迫害されるのか?

なぜ、多数のユダヤ人が虐殺されてきたのか?

ユダヤ人の受難はいつまで続くのか?

なぜユダヤ人は迫害されるのか?

古そうな洋書が本棚に並んでいる様子。

歴史上、最初に確認される迫害は、紀元前13世紀の「出エジプト」である。

詳しくは旧約聖書の「出エジプト記」に記されているが、この頃ユダヤ人の一部はすでにエジプト新王国による差別と迫害を受けていたという。

やがて、予言者モーセが現れ、ユダヤの民を率いてエジプトを脱出。

その後、聖なるシナイ山の頂上で神ヤハウェとの契約をさずけられた。

これが記録のある中では最初のユダヤ人への迫害であり、ユダヤ教の起源となった出来事である。

モーセの死後、その後継者となったヨシュアに率いられたユダヤ人は、ヨルダン川をわたり、イェリコの町とその地域を征服し、紀元前11世紀頃には、サウル王のもとで悲願のユダヤ人国家建国を成し遂げ、ダビデ王およびソロモン王の治世で、最盛期を迎える。

ところが、その繁栄も長くは続かなかった。

ソロモン王の死後、王国は北方の北イスラエル王国と、南方のユダ王国に分裂。

その後、 北イスラエル王国はアッシリア帝国に、ユダ王国は新バビロニア王国に、それぞれ征服され、ユダ王国の人々はバビロンに強制移住させられた。

この強制移住は「バビロンの捕囚」と呼ばれ、移送の際に多数のユダヤ人が虐殺されている。

出エジプトにつづく、第二のユダヤ人迫害である。

この新バビロニア王国も紀元前539年にアケメネス朝ペルシャ帝国に滅ぼされるが、比較的寛大なこの新しい支配者のもとで紀元前538年にユダヤ人はエルサレムに帰還することが許された。

彼らは帰還後、神殿を再建し、唯一神ヤハウェを信じるユダヤ教が成立した。

これ以降、彼らはユダヤ人と呼ばれるようになった。

そして時が経ち、ユダヤ人迫害を決定づける歴史的大事件がおこる。

イエス・キリストの処刑である。

ハンス・メムリンク作『Triptych with Birth, Crucifixion and Resurrection of Christ』
タイトル: Triptych with Birth, Crucifixion and Resurrection of Christ
作成者: Hans Memling

Follower of Hans Memling, Public domain, via Wikimedia Commons

イエスの死後、キリスト教はヨーロッパで急速に広まったが、ローマ帝国時代にはキリスト教徒はさまざまな差別・迫害を受けていた。

しかし、313年ミラノ勅令によりキリスト教が初めて公認されたことで、長かったキリスト教徒への迫害に終止符が打たれた。

これはキリスト教徒にとっては完全勝利であり、ユダヤ教徒にとっては新たな差別と迫害の始まりであった。

ヨーロッパキリスト教社会において、ユダヤ人は「キリスト殺しの罪を背負うもの」とされ、イスラム教徒とともに常に迫害の対象とされたのである。

中世に入っても、ユダヤ人への迫害は続いた。

一つの例が十字軍である。

そもそも十字軍とはヨーロッパのキリスト教諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還するために派遣した遠征軍であったが、エルサレム奪回という目的を果たした後にはイスラム教徒だけでなく、同地に残っていたユダヤ人も虐殺されたという。

第一回十字軍が誕生したばかりの1096年にはすでにドイツでユダヤ人に対する迫害が起こっており、これが歴史上最も有名なユダヤ人迫害であるナチスドイツによるホロコーストの序幕となったのである。

リトアニアにおけるユダヤ人の歴史

現代のリトアニア第2の都市カナウスの美しい町並みの様子。
現在のリトアニア カナウス

Kulmalukko, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

リトアニアには古代より多くのユダヤ人が住んでおり、中世になるとリトアニア大公がユダヤ人たちに重要なビジネスを認め、また集団居住を許し、宗教的権利を認めたことから、13世紀にヴィリニュスにおいてはじめてユダヤ人コミュニティが誕生している。

14世紀にはヴィータウタス大公が中欧での迫害から逃れてきたユダヤ人を呼び寄せ、リトアニアに定住させることで商業の活性化を図ったことで、リトアニアには4つのユダヤ人コミュニティが存在するまでになる。

そして15世紀後半にスペインでレコンキスタ(キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動の総称)が完成すると、さらに多くのユダヤ人が東欧に移り住むようになり、18世紀末の時点ではリトアニアには約25万人のユダヤ人がいた。

1805年に「ユダヤ人法」が施行されるとユダヤ人特別強制居住区(ゲットー)が設定され、1880年にはユダヤ人は都市部に居住しなければならないと定められたことから、19世紀には以前にも増して多くのユダヤ人がヴィリニュスに住むようになった。

ヴィリニュスは「リトアニアのイェルサレム」とも「北のイェルサレム」とも呼ばれ、1925年にはユダヤ学研究所 (YIVO) が設立されるなど世界的にもユダヤ文化の中心であり続けた。

しかし、1940年代のナチス・ドイツによる占領により、リトアニアのユダヤ人を取り巻く状況は一変する。

リトアニアにおけるホロコースト

リトアニア内務省警備隊によって検挙されるユダヤ人たちのモノクロ写真。
1941年。リトアニア占領後、ナチスドイツに協力するリトアニア内務省警備隊によって検挙されるユダヤ人たち。

Bundesarchiv、Bild 183-B12290 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE, via Wikimedia Commons

リトアニアにおけるホロコーストでは、およそ20万8000人から21万人いたとされるユダヤ人のうち19万5000人から19万6000人が虐殺の犠牲となり、そのほとんどが1941年6月から12月の間に殺害された。

犠牲者にはユダヤ人以外の者も含まれるが、短期間にこれほど多くの命が失われた例はリトアニア史上ほかに無い。

リトアニアで起きたホロコーストの歴史は次の3つの段階に分けられる。

まずは1941年の夏からその年の末まで、

そして1941年12月から1943年3月まで、

最後に1943年4月から1944年7月中旬まで、

の3段階である。

アインザッツグルッペンを創設したラインハルト・ハイドリヒ、ゲシュタポ長官ハインリヒ・ミュラー、ノルウェーのSDとSipoのリーダーとハインリヒ・フェーリスSS親衛隊長のモノクロ写真。
中央:アインザッツグルッペンを創設したRSHA長官ラインハルト・ハイドリヒ / 右:ゲシュタポ長官 ハインリヒ・ミュラーSS親衛隊長 / 左:ノルウェーのSDとSipoのリーダー ハインリヒ・フェーリスSS親衛隊長

NTB, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

ドイツの移動殺戮部隊「アインザッツグルッペン」はドイツ軍の進軍に合わせてユダヤ人を組織的に殺害していったため、リトアニアでは約8万人のユダヤ人が1941年10月までに殺され、年末までに約17万5000人が虐殺された。

「アインザッツグルッペン」について詳細は前ページ「日本領事館閉鎖とユダヤ人の運命 / ユダヤ人を救った「日本のシンドラー」杉原千畝物語(6)」を参照。

この時点ではまだ強制収容所が出来上がっていなかったため、ユダヤ人たちが収容所に送られることはなかったが、その代わりに多くのユダヤ人が居住地の近くで射殺された。

カウナスやヴィリニュス近郊のポナリの森などで起きた大量虐殺は有名である。

アインザッツグルッペンの虐殺を生き残ったユダヤ人は、1942年までの段階でおよそ4万5000人であり、その多くはゲットーや強制収容所へと送られた。

これがリトアニアにおけるホロコーストの第2段階である。

リトアニアではヴィリニュス・カウナス・シャウレイの3か所に大きなゲットーが設置されたが、この頃になるとナチスはドイツ経済を立て直すためにユダヤ人を労働力として強制労働させるようになり、虐殺の規模は縮小された。

しかし、1943年4月から1944年7月中旬にかけてゲットーや収容所は解体され、ユダヤ人の虐殺が再びナチスの優先事項となった。

これがリトアニアにおけるホロコーストの第3段階である。

ユダヤ人が処刑された地と人数を記した地図。
「アインザッツグルッペAが実行したユダヤ人処刑の地図」

Franz Walter Stahlecker (1900–1942), Public domain, via Wikimedia Commons

フランツ・ヴァルター・シュターレッカー親衛隊少将からハインリヒへの報告書の地図。
「アインザッツグルッペAが実行したユダヤ人処刑」と題され、1941年にリトアニアを含むバルト諸国とベラルーシで処刑したユダヤ人の数が示されている。この報告書の時点で、リトアニアでは 136,421 人のユダヤ人を殺したことが示されている。

下部には、”まだ手元にユダヤ人が推定128,000人いる “と記されている。

リトアニアでユダヤ人を襲った悲劇の背景

フェンスを両手で掴む様子。

リトアニアでこのような悲劇が起こった原因は、1940年のソ連による併合に遡る。

1941年6月22日にドイツがソ連に侵攻し独ソ戦が始まると、ナチス・ドイツはリトアニア人からは解放軍として歓迎され、絶大な支持を集めた。

リトアニア人の多くはドイツによってリトアニアの再独立が認められると信じており、ナチス・ドイツが展開していた反ユダヤ主義政策に同調する者も多くいたという。

ドイツ軍占領後、リトアニアのユダヤ人はただちに他のドイツ占領地と同様の制限が課せられた。

すなわちダビデの星の着用、移動制限、購入制限、夜間外出禁止などである。
(ダビデの星は当時”Judenstern”(ユダヤの星)または”Zionstern”(シオンの星)と呼ばれていた。)

ダビデの星とは?

イスラエルのブルーを基調とした国旗。

ダビデの星は、ユダヤ教、またはユダヤ民族を象徴する印で、二つの正三角形を逆に重ねた形をしている。現在のイスラエルの国旗にも描かれている。
古代イスラエルのダビデ王に由来するとされる。(由来や起源については様々な説が唱えられている。)

ナチス・ドイツは占領地でユダヤ人を識別するため、黄色で描いた星型紋様をつけることを義務づけた。

ハンガリーのブダペストでユダヤ人を意味するバッジを付けられているユダヤ人たちの様子。
画像はブダペストで星のバッジを着けさせられているユダヤ人

Bundesarchiv, Bild 101I-680-8285A-25 / Faupel / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE, via Wikimedia Commons

リトアニア人によるユダヤ人の大量虐殺

リトアニアにおいてユダヤ人を虐殺したのはナチスドイツだけではなかった。

多くのリトアニア人がユダヤ人に対するジェノサイド(大量虐殺)に積極的に関与しており、その背景にはいくつかの要因が挙げられる。

他のヨーロッパ諸国と同様に、当時の伝統や価値観には反ユダヤ主義的な要素が含まれていたことに加え、リトアニア人はリトアニア人だけで構成する「純粋な」国民国家を築き上げることを望んでいた。

そこにナチスにより意図的に広められたプロパガンダ「ユダヤ=ボルシェビズム」(※)が浸透したことで、「我々が解放されるためにはユダヤ人を殲滅するしかない」と、リトアニア人の反ユダヤ主義を煽り立てていったのである。

※「ソ連に対する戦争は陰で糸を引くユダヤ人に対する戦争である」「ドイツによるソ連に対する侵略は解放戦争である」というプロパガンダ

他にも、長引く不況下で生活が苦しくなる中、ユダヤ人の財産をめぐって殺害が行われたという側面もあった。

そして何よりドイツがリトアニアを支配するまでの間、リトアニアに降りかかった災難のすべてがユダヤ人のせいと煽動されていたためであった。

殺害に加わった現地人の残虐性はドイツ人すら逃げ出すほどのものであったとされており、その様子が記されたソリー・ガノール著「命のロウソク―日本人に救われたユダヤ人の手記 」より、リトアニア人による虐殺の様子を一部抜粋する。

門をくぐった私たちの目の前に地獄図が広がった。(中略)…2000とも3000とも思える人々が固まっていた。人々の頭上、斜面の上の回廊部には多くは私服のリトアニア人十数人があちこちに陣取っていて、下の人たちを銃で狙い撃ちにするのである。いくつもの銃口から黄色い火花が散り、至るところ青い硝煙が立ち込める。下の人々は弾丸を避けようとあちらこちらへと悲鳴をあげながら逃げ走る。死んだ者、負傷した人間がいたるところに転がっている。

それはおぞましい人間射的場そのものであり、犠牲者たちの発するうめきと叫びは実に恐ろしいもので、この光景は私の心に焼きついて離れなくなった。(中略)…1941年7月の始めカウナスのユダヤ人住民に対して大量逮捕が行われた。10000から12000の人々が第7要塞に連れていかれた。大多数は男性だが女性と子供もかなり混じっていた。(中略)…リトアニア人は常時酔っ払っていられるようビールとウォッカをたっぷり与えられており、それが炎暑と相まって彼らをいっそうサディスティックにしていた。

とりわけ無惨だったのは要塞の地下のバラック造りの収容室に閉じ込められた若い女の人たちの運命である。夜になると、リトアニア人たちが彼女らを集団で引き出し、強姦した上で射殺するのだった。こうした夜が何日も何日も続いた。

あわれな彼女らはひどいパニックに陥り、リトアニア人たちが乱痴気騒ぎをやり、いちどに10人もの女性に集団強姦を加える間に発狂してしまう人もいた。顔を汚して難を免れようとする者もいたが無駄だった。母親と娘が同時に犯される場面も多かった。(中略)…要塞での最初の数日を生き延びた人は7、8000人いたがその後射殺され、ソ連軍捕虜たちの手で地下にうずめられた。

ソリー ガノール著「命のロウソク―日本人に救われたユダヤ人の手記」

「日本のシンドラー」と呼ばれる杉原千畝の発給した命のビザにより救われたユダヤ人は、このような過酷な運命を辿らずに済んだのである。

改めてその功績の大きさを考えざるを得ない。

次回に続きます。

文/ガイドアメディア編集部
編集:Taro

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