皆さんは「頑固一徹」という言葉を耳にしたことはありませんか?
とある昭和の熱血野球漫画で我が子に時には暴力も辞さないスパルタ教育英才教育を施す父親の名前になったり、こだわりのラーメン屋の店名になったりしているこの言葉。
その語源になっているのが、今回の主役稲葉一鉄です。
稲葉一鉄はあの織田信長が一目置き、敬意をもって接した武将であり、その一方で巧みに世の中を渡り、家を江戸時代に続かせています。
今回はそんな頑固おやじを紹介します。
稲葉一鉄の俗名は稲葉良通(よしみち)ですが、出家後の法名である「一鉄」の名が知れ渡っていると思われますので、本文中も「一鉄」で統一します。
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稲葉氏のルーツ
一鉄の祖父は伊予国(現愛媛県)の守護河野氏の一族でしたが、何らかの事情により所領を失い、流浪の果てに美濃国(現岐阜県)に土着したといわれています。
この流浪の生活ですから、きっと物乞いをするようなこともあったことでしょう。
後に一鉄は外出するときなどは常に小銭などを持ち歩くようになり、僧侶や修験者などを見かけると必ず彼らに銭を与えたそうです。
一鉄クラスの武将が小銭を持ち歩くなど当時の常識ではありえないことですが、きっと幼い頃に祖父から苦労話を聞かされ、他人事とは思えなかったからでしょう。
一鉄は六男として生まれ、幼少期に崇福(そうふく)寺に預けられ快川紹喜(かいせんじょうき)の下で修業をしていたといわれています。
しかし父と兄たちが全員戦死したため一鉄は還俗して、祖父と叔父の後見の下で稲葉家の家督を継ぎました。
気骨の僧侶~快川紹喜
快川紹喜は美濃に生まれ、後に武田信玄に招かれ甲斐の恵林寺の住職を務めました。また正親町(おおぎまち)天皇からは国師号を賜っています。
そして快川紹喜といえばこの言葉です。
心頭滅却すれば火もまた涼し(しんとうめっきゃくすればひもまたすずし)
快川紹喜の名前は知らなくても、この言葉はどこかで目にしたことがあるのでは?
これは武田氏滅亡のとき、快川紹喜は恵林寺に逃げ込んでいたかつて織田氏に敵対していた者を引き渡すように織田軍から命じられました。
しかし寺院は聖域であり世俗権力の介入は許さないという考えから快川紹喜はこれを拒否します。
これに怒った織田軍は恵林寺に火をかけ、快川紹喜は寺と運命をともにしました。そのときに残した辞世の一部がこの言葉です。
意訳しますと、「いかなる困難にぶつかろうとも、心の持ち様一つでそれも苦しいことと思わずに済む。」くらいの意味でしょうか。
このような高僧の下で少年時代を送った一鉄。ここで培った教養が後に有名な逸話の中に出てきます。
「西美濃三人衆」の筆頭稲葉一鉄
話を一鉄のことに戻しましょう。
美濃で斎藤道三が力を持つとこれに従い、西美濃の実力者の一人として重く用いられるようになります。
この「西美濃三人衆」は一鉄の他、安藤守就(あんどうもりなり)、氏家直元(うじいえなおもと)の三人で、いずれも道三の息子義龍(よしたつ)が父に対して反旗を翻すと義龍に従います。
ちなみに斎藤義龍の母は一鉄の姉だったという説もあります。しかし、もしそれが事実だったとしたら一鉄のこの後の振る舞いも違ったものになっていた気もしますが、いかがでしょうか。
稲葉一鉄、織田信長の家臣になる
斎藤義龍は父を倒して国衆たちの支持を得て国主になりましたが、若くして世を去ります。
そして義龍の子龍興(たつおき)が国主の座に就きますが、人心は離れ美濃は南からの脅威にさらされます。尾張の織田信長です。
信長は巧みに調略の手を伸ばして内応者を増やし、西美濃三人衆もこれに応じたため、斎藤龍興は稲葉山城を追われ、信長が美濃を手に入れました。
稲葉山城(岐阜城)については、
こちら:『蝮とうつけが築いた城~斎藤道三と織田信長を支えた岐阜城 』もどうぞ。
そして一鉄は織田家でも名だたる武勇の将として活躍するようになります。
ちなみにこの三人衆、それぞれの後日があります。氏家直元は信長に従って伊勢一向一揆と戦い、そこで戦死します。安藤守就は信長に追放され美濃に隠居したのですが…
姉川の戦い~徳川家康が指名したのは稲葉一鉄
将軍を擁し上洛を果たした信長の前に強敵が立ちはだかります。浅井長政(あざいながまさ)と朝倉義景(あさくらよしかげ)の連合軍です。
信長は同盟者である三河の徳川家康に援軍を要請して、浅井・朝倉連合軍と激突します。姉川の戦いです。
このとき信長は兵数の少なかった家康に自分のところの武将を一人連れて行くように申し出ました。
自分の力だけで戦うことで信長に自らの存在感を見せつけたかった家康は、一度はこれを拒否します。しかし再度信長から言われると「そこまで申されるなら稲葉一鉄殿をお借りしたい。」と答えました。
これは他国の大名である家康からもその武勇の高さを認識されていたということで、諸将は皆一鉄のことを羨んだそうです。
一鉄は数多の戦場を駆け巡り、功を立てなかったことはないほど活躍したといわれています。
この姉川の戦いでも徳川軍に所属して朝倉軍を蹴散らし、浅井軍に攻め込まれて信長の本陣が危ないと見るや、浅井軍の右翼を突き崩し縦横無尽に活躍しました。
多言語観光情報サイト「Guidoor(ガイドア)」|駿府城公園
信長の申し出を断る頑固一徹
信長は苦戦したものの姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を撃破します。信長は一鉄が勲功第一であると絶賛し、自分の名前から「長」の字を与えようと言いました。
しかし一鉄は徳川家康の勲功が一番であるとしてこれを拒否しました。
なぜ一鉄は拒否したのでしょうか?
この時代、主から名前を頂くというのは大変名誉なことでした。ですから与える側もこれを上手く利用して、家臣の心を獲る手段としていました。
詳しいことは伝わっていませんが、一鉄はそんなことをされなくても自分は信長に忠誠を尽くしますよと言いたかったのでしょうか。
あるいは、せめて名前くらいは自分の意のままにさせてよとでも言いたかったのでしょうか。
あっさり拒絶されてしまった信長もさぞ驚いたでしょう。まさか主人である自分の褒美を断る奴がいるなんて…
もっとも最終的に一鉄は信長の申し出を受けたようです、さすがに。
織田信長と稲葉一鉄~尊敬で結ばれた君臣
一鉄の覚悟
ある者が信長に一鉄のことを讒言しました。これを信じた信長は一鉄を殺してしまおうと、一鉄を自分の茶室に招きます。
すると何事かを察してここにやって来た一鉄は、茶室にある掛け軸の文章を読みながら自分の身の潔白について語りました。
この掛け軸は墨蹟(ぼくせき)といわれ、中国の高僧が書いた文章であり、その意味を知っているということは相当な教養の持ち主であることの証明でもありました。
一鉄は武辺一辺倒だと思っていた信長は驚くとともに感動し、一鉄の無罪を信じました。
そして信長は一鉄を暗殺しようと供の侍たちに懐剣を忍ばせておくよう命じていたと告白します。
すると一鉄も、そのことはわかっていましたが、むざむざやられては武士の面目にかかわるので、供の侍の何人かを道連れにしようと思っていたと懐から剣を出しました。
これを見た信長は、武人たるものこうあるべしとさらに感激したそうです。
この教養の深さは幼少期に快川紹喜から学んだことがしっかりと身についていたのでしょう。
今弁慶、稲葉一鉄
武田勝頼との決戦である長篠の戦において、赤い具足を着用して赤い槍を手にした一鉄は味方を鼓舞し戦場を動き回りました。その姿を見た信長は、あれは今弁慶じゃと喜びそして賞賛したそうです。
信長の気まぐれ
信長が京都から岐阜城に帰る道すがら、ふらっと一鉄の家に立ち寄りました。一鉄は信長の突然の来訪を喜び、孫たちに能を披露させました。
信長も一鉄の歓待ぶりに満足して自分の刀を孫の一人に与えたそうです。
一鉄、出家する
60歳を過ぎた一鉄は家督を息子に譲り、剃髪して出家しました。このことを後で知った信長は、自分に断りなく出家するとは何事だと怒り、一鉄に謹慎を命じました。
しかし信長の心を知る一鉄は、近くに信長がいることを聞くとふらりと出向き挨拶をすると、信長もこれに応じてすぐに打ち解け謹慎処分は解かれました。
なんというツンデレぶり…
夜咄の主役、稲葉一鉄
信長は新しいもの好きの合理主義者という面が強調されていますが、実際には古典的な教養を持ち合わせていました。
また信長は夜、配下の武将や小姓などを集めて武辺の話をしたり聞いたりすることを特に好んだそうです。一鉄のような歴戦の勇者はこのようなときには欠かせぬ人だったことでしょう。
ちなみにその聴衆の中にいつも目を輝かせて話に聞き入る一人の少年がいました。その姿を見た一鉄は信長に「あの子は将来一軍の将になる人材です。」と語りました。
その子は長じて蒲生氏郷と名乗り、一軍の将として常に陣の先頭を疾駆する武将になりました。
蒲生氏郷については、
こちら:春の風なんか大嫌い!勇猛で優雅な武将蒲生氏郷もどうぞ。
稲葉一鉄と明智光秀
明智光秀も一鉄と同じく美濃の出身です。光秀が信長に仕えた時期は一鉄より遅かったのですが、戦いに政治に次々と結果を残し、信長の軍団を束ねる重臣の一人になっていました。
そうなると当然有能な家臣を雇い入れなくてはなりませんが、そう簡単にそのような人材を見つけることはできません。
そこで光秀は勇猛をもって知られる一鉄の家中から斎藤利三(としみつ)という武将を引き抜きました。
これは引き抜きではなく、利三は一鉄の娘を妻に迎えていましたが、そのわりに待遇が低いことに腹を立てて血縁のある光秀の下に走ったともいわれています。
さらに光秀は利三を通して別の家臣を引き抜きました。さすがに一鉄は怒り、この旨を信長に直訴します。
信長は一鉄の訴えを聞き入れ、別の家臣の引き抜きをやめさせ、さらに利三を切腹させるように光秀に厳命しました。
この決定が下ったのが本能寺の変の数日前!もしかすると、このあたりに本能寺の謎が秘められているのかもしれません。
もっともこの話についても信長は光秀を厳しく叱責したものの、最終的には光秀の言い分を受け入れる一方、一鉄を上手くなだめたという説もあります。
明智光秀と本能寺の変については、
こちら:敵は本能寺にはいなかった?~明智光秀の生涯もどうぞ。
本能寺の変~稲葉一鉄、旧友と対決する
本能寺の変が起こると上記の経緯もあり、また光秀に先が無いことを見抜いた一鉄は美濃で光秀には与せず対決の姿勢を見せました。
するとこの混乱に乗じてかつての盟友が一鉄の城に攻め込んできました。信長から追放処分を喰らっていた西美濃三人衆の一人安藤守就とその一族です。
しかし守就は一鉄の前に敗れ、落命します。守就はこのとき80歳。凄まじい執念です。
稲葉一鉄、孫娘を引き取る
明智光秀は羽柴秀吉に敗れ落命します。そして明智家の重臣となっていた一鉄の元家臣斎藤利三も捕らえられて処刑され、光秀ともども本能寺でその首を晒されます。
先述の通り利三の妻は一鉄の娘です。利三には娘がいたので、一鉄はこの孫娘を引き取り育てることになります。
この孫娘こそ後に江戸幕府三代将軍徳川家光の乳母となり、家光からの厚い信頼のもと幕府で絶大な権力を振るった春日局(かすがのつぼね)です。
一鉄が彼女の養育にどの程度関与したかは不明ですが、幼い頃にひとしきり公家文化・教養を学んだことは後の彼女の立身に大きな財産となりました。
その後の稲葉一鉄
一鉄は信長の後を継いで天下人となった豊臣秀吉からも厚遇を受け、大坂城で秀吉から茶の振る舞いを受けたという記録も残っています。
そして生まれ育った美濃の地で生涯を閉じました。
織田信長が愛した男稲葉一鉄
こうして見てみると織田信長がいかに一鉄のことを敬愛していたかがおわかりいただけると思います。信長に対してこれほど毅然とした態度を取れた家臣がどれだけいたでしょうか?
信長も一鉄が武勇と教養を兼ね備えた誇り高き男であることを知り抜いていたからこそ、家臣である一鉄の態度を許す、いやむしろ喜んで受け入れていたのでしょう。
「頑固一徹」という言葉の語源といわれているものの、その手のエピソードはあまり見当たりません。ですから何故このように呼ばれたのか少し疑問に思える部分もありますが、武骨でときどき融通が利かない典型的な武士の姿を一鉄に見る気がします。
執筆:Ju
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