細川忠興(ただおき)は織田信長にも可愛がられた智勇兼備の武将であり、その後豊臣秀吉、徳川家康に従い、子孫は熊本54万石の藩主として繁栄していきます。
細川忠興の妻、珠(玉)はガラシャの名で知られており、明智光秀の娘でもあります。忠興はガラシャを深く愛し、三男二女を儲けます。しかしそんな二人にも過酷な運命が待っていました。
あることを契機に夫婦仲は徐々に歪んでいき、やがてガラシャは関ヶ原前夜に命を落とすことになります。
今回は戦国時代を代表するこの夫婦の物語を紹介したいと思います。
(忠興の妻、珠がキリスト教徒になり「ガラシャ」という洗礼名を受けるのは後年のことですが、本文では有名なガラシャの名前で統一させていただきます。)
(※記事を更新し2023/10/05に再公開しました)
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織田信長に仕えた細川忠興の父藤孝と明智光秀
細川忠興の父藤孝(ふじたか)は足利将軍家に仕え、後に織田信長に仕える武将です。細川家は幕府の要職を代々務める名家で、藤孝は嫡流ではないものの一門として将軍の側近くに仕えていました。
しかし13代将軍足利義輝(よしてる)が暗殺されたため、その弟義昭を奉じて諸国を流浪していました。
そんな藤孝の同僚であり親友であったのが明智光秀です。光秀の出自は不明ですが、藤孝のような幕府の名門の家の出ではありません。
彼らは義昭を将軍の位につけるために織田信長を説得して上洛を実行させ、信長の信頼を勝ち取ります。
細川藤孝が将軍家に古くから仕えていたためその支配下から脱せなかったのに対し、明智光秀は新参であったため早いうちから信長配下の武将として目覚ましい活躍を見せるようになります。
そして信長にその実力を認められた光秀と藤孝の位置関係は逆転していきます。
その後義昭が信長によって京都から追放されるようになると、藤孝は光秀の与力(光秀の指示を受ける大名)として共に信長のために戦うようになっていきます。
細川忠興 明智光秀の娘ガラシャとの出会い
織田信長は明智・細川両家の関係を強固にするため、細川忠興に明智光秀の娘を娶るように命じます。この娘が後のガラシャです。
こうして勝龍寺城にて夫婦になった忠興とガラシャの二人は大変仲睦まじかったといわれています。しかし…その後の二人を待ち受けているのは波乱万丈な人生でした。
苦渋の決断を迫られる細川忠興 ガラシャとの離縁
「本能寺の変」織田信長死す。そのとき細川家の判断は
細川忠興とガラシャとの間には一男一女が生まれ二人は幸せな日々を送っていました。また細川家も明智光秀の支援のもと、丹後国(現京都府北部)南部を支配するようになり順風満帆でした。
しかし大事件が勃発します。本能寺の変です。
突如織田信長に反旗を翻した明智光秀は京都本能寺に宿泊中の信長を襲撃して、命を奪います。そして京都周辺の大名たちに対して、自分に味方するよう書状を送ります。
光秀は盟友であり、自分の娘が嫁いだ細川家は有無を言わず自分に従うであろうと考えていたことでしょう。
しかし現実は異なりました。
細川忠興の父、藤孝は光秀からの要請をきっぱりと断ります。そして藤孝は髪を剃り、名を幽斎と改め隠居し家督を忠興に譲ってしまいます。さらに忠興に対してガラシャと離縁するように命じました。
藤孝にとっては親友であり、上司でもあった光秀ですが、この謀反の計画性の無さやそもそもの上下関係に不満があったことから藤孝は同心しなかったといわれています。
しかし忠興はガラシャを深く愛していました。通常離縁ともなれば実家に帰すのが普通ですがそうはせず、味土野(みどの、現京都府京丹後市)という山深い場所に幽閉します。
そして忠興は世間的にはガラシャを幽閉したと宣言しつつも、しばしばその場所に通っていました。
「三日天下」明智光秀の滅亡とその後の細川家
ガラシャの父明智光秀にとって細川親子の不服従は大痛手でした。親類さえ従わぬ者に従う者はほとんどおらず、全速力で京都に戻ってきた羽柴(豊臣)秀吉の軍に敗れた光秀は敗走中に落命します。
細川藤孝は早くから反光秀の旗幟を鮮明にしており、また早い段階で秀吉に誼を通じていたため、光秀との通謀を疑われることはなく南丹後の領地を安堵されています。
一方北丹後の領主、一色満信(いっしきみつのぶ)は忠興の妹を妻としていましたが、光秀に通じていたため細川軍に討伐されてしまいます。
忠興の活躍により北丹後を制圧した細川家は丹後一国の領有を秀吉から認められます。
細川忠興の顔にある二つの傷のエピソード
細川忠興は先述のとおり織田信長が一目置くほどの勇敢な武将でしたが、額と鼻に目立つ傷がありました。
額の傷は忠興が初陣のときに受けたもので、勇猛果敢に戦った証として「鼻の傷」ができるまでは周囲に自慢していたようです。
しかし「鼻の傷」はこの北丹後攻めの後に思わぬ形で受けたものでした。忠興は妹の夫である一色満信を攻め滅ぼしたわけで、これに激高した妹に斬りつけられてできた傷なのです。
この後忠興の前で顔の傷を話題にするのは禁句になったそうです。
実はこの後忠興の激しい性格が徐々に表面に出てくるのですが、妹も同じ血を受けていたのですね…
ちなみにこの妹は後に他家に嫁ぎ子宝に恵まれ平穏に暮らしたようです。
離縁された細川忠興の妻ガラシャの処遇
話を細川忠興とガラシャの二人に戻しましょう。
こうして秀吉傘下に収まった幽斎・忠興の細川親子でしたが、「謀反人の娘」ガラシャは相変わらず幽閉されたままでした。「謀反人」明智光秀を滅ぼした秀吉への手前、おいそれと迎えるわけにはいかなかったのでしょう。
この状況を見かねた秀吉が、ガラシャを大坂の細川屋敷に迎えることを許可します。秀吉としても天下の形勢は定まっておらず、有能な武将の心を獲っておきたかったのでしょう。
表面上は約2年の別居生活を経て再び二人は生活を共にするようになり、忠興は引き続き秀吉配下の武将として各地を転戦します。
ガラシャ、洗礼を受けキリスト教徒になる
細川忠興の九州従軍とガラシャの洗礼
細川忠興が九州征伐に従軍する前、二人の間には三男で後に細川家を継ぐことになる忠利(ただとし)が生まれていました。
しかし忠利は体が弱くガラシャにはこれが心配の種でした。また自分の父明智光秀が謀反人となり、討たれてしまったことへの苦悩もずっと引きずっていたことでしょう。
ガラシャは忠興が九州に出かけると、この精神的な不安を解消するため、前々から興味をもっていたキリスト教の教会へ密かに足を運びます。
ちなみにガラシャがキリスト教に興味を持ったきっかけは、忠興の親友でキリシタン大名として有名な高山右近(たかやまうこん)の話を忠興から聞いたためといわれています。
そしてこの教会への微行によりキリストの教えに目覚めたガラシャはついに洗礼を受けるに至ります。このときにクリスチャンネームを受け、元の「珠」からガラシャという名になりました。
しかしこのことはガラシャに予期せぬ試練を与えることになります。
豊臣秀吉が出した「バテレン追放令」
九州に赴いた豊臣秀吉は九州でのキリスト教の盛況ぶりに驚きました。身分の低い者ばかりか、武士や大名までもが洗礼を受けていることをその目で見ると、キリスト教への脅威を感じずにはいられませんでした。
そこで秀吉はバテレン追放令を発布します。しかしこの法令は必ずしもキリスト教の信奉や布教を禁じたわけではありません。秀吉は京都の教会の破却と長崎を豊臣家の直轄領とした以外にはこれといった処分はしていません。
しかし細川忠興はこの秀吉のキリスト教への反感を知り、ガラシャが洗礼を受けたことは細川家に危機を招きかねないと考えたのでしょう。
大名として家の安泰を考えるのは当然のことなのですが…
ガラシャを愛した細川忠興の変心 歪みだす二人の仲
この九州出陣を契機に細川忠興は人変わりをしてしまいました。
忠興はガラシャの前で「側室を5人持つ」と言ったり、ガラシャの乳母のちょっとした過失を見咎めて彼女の鼻と耳を削いだうえで追放したりします。
さらには無礼な振る舞いのあった家臣を忠興が斬って、刀についた血をガラシャの小袖で拭き取るなど、それまでには見られなかった忠興の狂気の一面が顔を出すようになります。
もっともガラシャも気丈な女性であり、血のついた小袖をそのまま何日も着続けたので、今度は忠興が詫びを入れて着替えさせたそうです。
細川忠興とガラシャのエピソード 二人は「鬼と蛇」?
こんな逸話があります。
あるとき屋敷の樹木を管理する庭師が些細なことで細川忠興の逆鱗に触れてしまい、忠興に切り捨てられてしまいました。その光景を見ていたガラシャでしたが何の反応も示さずその場を去ろうとします。
すると忠興はガラシャにむかって「なんとも思わないのか。蛇のような女だ。」と罵ります。
それに対してガラシャは「ささいなことで人を斬るとなんてあなた様は鬼です。鬼の女房には蛇がお似合いです。」と言ってその場を去ったそうです。
以上、かなり病んでいる感のある話でした…
細川忠興には茶道を愛した文化人としての一面も
話は少しそれます。ガラシャに「鬼」とも言われた細川忠興ですが、実は文化人としても知られています。
特に当時戦国武将たちの間でも大流行していた「茶道」においては、あの千利休(せんのりきゅう)の高弟であり「利休七哲(りきゅうしちてつ)」の一人に数えられています。その中で利休に最も可愛がられていたのが忠興だともいわれています。
この七哲の筆頭にいたのが蒲生氏郷(がもううじさと)という武将で、氏郷も戦場にあっては勇猛果敢、戦場を離れれば雅を嗜む人物であり、忠興とは大変親しくしていました。
この忠興を祖とする「三斎流」という茶道の一派が現在も続いています。(三斎とは忠興の法名です)
また忠興は茶道のみならず、和歌、絵画でも一流でした。ちなみに忠興の父幽斎はこの時代の和歌の大家として知られています。
「利休七哲」は千利休の高弟7人の武将を指す呼称で、古くは「利休七人衆」ともいわれました。後の時代の変化によりあげられる7人のメンバーの名前は入れ替わりがありますが、細川忠興と蒲生氏郷だけは一貫して変わりませんでした。
話を忠興・ガラシャ夫妻のことに戻しましょう。
細川忠興とガラシャ 夫婦の仲を永遠に引き裂いた関ヶ原の戦い
時代は進み、天下を治めたかに思われた豊臣秀吉が亡くなります。細川忠興とガラシャの二人には、その後余りにも過酷な運命が待ち受けていました。
秀吉死後の政権争いは、やがて「関ヶ原の戦い」がへと発展してゆきます。全国の大名が参戦し、徳川家康率いる東軍と石田三成の西軍は関ヶ原でぶつかり合うこととなります。
この政権争いと関ヶ原の戦いが細川忠興とガラシャ二人の運命を大きく変えてしまいます。
豊臣秀吉逝去と細川忠興の去就
豊臣秀吉が没すると細川忠興は徳川家康に接近します。そして家康が会津征伐のために東国に下ると忠興もこれに従います。
しかし大名たちは人質として妻子を大坂の屋敷に残さねばならず、いざ戦いとなれば人質の命はありません。大名家によっては、妻を樽に隠して国許に帰すなど対策に懸命でした。
特にガラシャを溺愛する忠興にとっては大きな悩みの種でした。忠興は過酷な命令をガラシャと屋敷に残る家臣たちに申し渡します。
「もし敵が屋敷に攻めて来たら、妻を殺したうえで全員切腹せよ。」
忠興はガラシャに自害をするようにとは言っていません。これはキリスト教で自害は禁じられていることを知っていたからでしょう。
そしてこの忠興の命令は悲しくも現実のものとなってしまうのです。
ガラシャを人質にしようとした石田三成の思惑と失敗
豊臣秀吉亡き後の政権を狙う徳川家康と、それを阻止しようと対立する石田三成たち。いよいよ戦いが近づくと中、三成は人質を取り大坂城に入れて脅迫すれば、家康に従っている武将達も自分たちに味方するだろうと考えました。
そこで三成は大名屋敷に兵を送るのですが、手始めに細川家を選びました。忠興のガラシャへの溺愛ぶりは武将たちの間でも有名でした。
そして細川屋敷を兵で囲むと屋敷内の人々に大阪城へ入城するよう勧告します。
ガラシャを人質にすれば、忠興が味方に馳せ参じることは間違いないと考えたのですが、この三成の考えはあまりにも甘く、もろく崩れてしまうのでした。
炎に包まれるガラシャの壮絶な最後
ガラシャは石田三成の勧告を拒絶し、細川家家臣たちに忠興の命令通り自分を殺すよう命じます。
その家臣は隣の部屋からガラシャを槍で突き絶命させると屋敷に火を放ちました。
この事態に驚いたのは三成です。まさか残された人々にそこまでの覚悟があるとは知らなかったため、この事件以降他家の人質を入城させることを断念したといわれています。
細川忠興とガラシャ 時代に翻弄されるも愛し合った二人
細川忠興は関ヶ原の戦いを終えて大坂に戻ります。忠興のガラシャを失った悲しみは深いものでした。忠興は最後にガラシャのためにキリスト教による葬儀を執り行いました。
政治と戦に翻弄され波乱万丈だった、細川忠興とガラシャ夫婦の間にこうしてピリオドが打たれました。戦いに勝利し家を守ったものの、最愛の妻ガラシャを失った忠興の悲しみはいかほどのものだったのでしょうか。
その後熊本藩細川本家では忠興・ガラシャの血は絶えてしまいましたが、分家の系統が二人の血を現在につないでいます。
執筆:Ju
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