ラフカディオ・ハーン「小泉八雲」と日本文化の出会い – Guidoor Media | ガイドアメディア

ラフカディオ・ハーン「小泉八雲」と日本文化の出会い

ラフカディオ・ハーン「小泉八雲」日本文化との出会い。妻セツとの写真
ラフカディオ・ハーン「小泉八雲」日本文化との出会い。妻セツとの写真

ラフカディオ・ハーン、日本帰化名・小泉八雲(こいずみ やくも)。

ギリシャ生まれのイギリス人である彼が日本文化と出会い、そして日本を訪れるまでの軌跡を辿っていきます。 

ラフカディオ・ハーン訪日に至るまでの経緯

ラフカディオ・ハーン4歳の時、母・カシマチは精神を病んだとされ、当時一家が住んでいたアイルランドから母国のギリシャへ帰国してしまいます。

ほどなくして両親は離婚。父親はその後、彼が7歳の時に再婚します。

こうしたことからラフカディオ・ハーンは父方で、子どものいない資産家の未亡人であった大叔母に預けられ、両親にほとんど会うことなく育てられるのです。

ラフカディオ・ハーンは、この大叔母によるキリスト教に基づく厳しい指導、そしてその後、入校した規律の厳しいフランス神学校や厳格なカトリック系寄宿舎の生活に辟易としていました。そのためキリスト教嫌いになったともいわれています。

1866年、寄宿学校の回転ブランコで遊んでいる最中、左目にロープの結び目が当たり失明(クリケットの球が当たったためという説も)。

彼が16歳の時でした。

このためラフカディオ・ハーンの顔写真は、右側のみをカメラに向けたもの、あるいはうつむいたものだけで、決して失明した左眼が写らないポーズとなっています。

同年、父親が駐在先のインドから帰国途中にマラリアに罹り病死。

享年48歳でした。

さらに1867年には育ての親であった大叔母の家が破産の憂き目に遭います。

そのため在学していたダラム大学(正確にはアショーカレッジという神学校・今日ダラム大学の一部。 ダラム大学はイギリスの名門校で、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学に次ぐ3番目に古い伝統を持つ学校 )を中退せざるを得なくなります。

母の精神の病、両親の離婚、自らの左目の失明、父親の病死、育ての親の破産・・・

これでもかというほどの不幸・悲劇がラフカディオ・ハーンを襲いました。

満身創痍・失意のどん底のなか彼は心機一転、アメリカを目指すこととなります。

移民船に乗り込み1869年渡米、ニューヨークに到着した ラフカディオ・ハーン は、得意のフランス語を生かし、アメリカのメディアで働きはじめました。

彼はどん底に落ちた境遇から這い上がるように努力を重ね、20代前半からジャーナリストとして活躍。

徐々に頭角を現し始め、報道記事から文芸評論まで幅広い分野の原稿をしたため、それが人々から受け入れられるようになりました。

その後オハイオ州の地元新聞社に入社した ラフカディオ・ハーン は 、ジャーナリストとしての生活に若干の余裕ができたこともあり、下宿の料理人であったマティ・フォリーという女性と結婚しようとします。

1875年、25歳のことでした。

しかしながら結婚式は頼んだ牧師から拒絶され、さらには結婚の届け出も受理されません。

なぜか。

マティ・フォリーは黒人(混血)女性だったのです。

当時、オハイオ州では白人と黒人の結婚は違法でした。

彼女との違法な結婚も災いし彼は新聞社を辞めざるを得なくなり、ライバル会社に一旦入社するも、そこも退社。結局マティ・フォリーとも破局してしまいました。

気分を変える目的もありオハイオ州からルイジアナ州に移り、慣れない食堂経営などにも手を出しますが失敗に終わりました。

ラフカディオ・ハーンと日本文化の出会い

うつうつとする日々の中、1885年 、(ルイジアナ州)ニューオーリンズで開催されていた万国博覧会の会場で偶然ある日本人と巡り合うこととなります。

日本から博覧会のために派遣されていた明治政府の官僚・服部一三でした。

服部はラフカディオ・ハーンに展示物などとともに日本文化を詳しく説明します。

服部一三は、長州藩士の子として山口県山口市で誕生、服部家の養子となり、長崎で洋学を学び、1869(明治2)年、アメリカニュージャージー州に官費留学、地元大学を卒業すると1875(明治8年)年に帰国、文部省(現文部科学省)の官僚として活躍。

1884(明治17)年の万国博覧会に明治政府の担当官僚(この時は農商務省)の立場で参加していたのです。

その後、官選により岩手県知事に転じ(1891年・明治24年)、以後、広島県知事、長崎県知事、兵庫県知事を歴任しました。

この時の服部一三との出会いは、その後日本を訪れたハーンの生活を決定づけることとなります。

文部省官僚であった服部一三らが島根県での英語教師の職をハーンに紹介したのです。

このことは後に改めて触れます。

ラフカディオ・ハーンと「古事記」

さて万国博覧会で服部一三を通じ日本文化と出会ったわけですが、その後、日本との決定的な遭遇がラフカディオ・ハーンに訪れます。

英訳された「古事記」です。

この古代日本の歴史書を読んだラフカディオ・ハーンは日本に魅了されていきます。

若き日本学者 B・H・チェンバレンによって英訳された「古事記」(Kojiki)は1883年に出版されています。

日本最古の歴史書とされる「古事記」は奈良時代の貴族・太安万侶が編纂し、712年に元明天皇(707年~715年在位の第43代の女性天皇)に献上されたといわれており、 日本の創世を描いた「日本神話」の世界から、推古天皇(593年~628年在位の第33代の女性天皇)の時代に至るまでの様々な出来事が記されています。

この中で「出雲神話」が重要なポイントを占めています。

そうラフカディオ・ハーンが来日して、最初に赴任した場所、「出雲(島根県)」と鳥取県などの山陰地方を舞台にした物語です。

この部分は後に詳しく触れたいと思います。

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カバー画像出展:Wikipedia掲載画像

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