松永久秀(まつながひさひで)という武将をご存知でしょうか?官職名から松永弾正(だんじょう)としても知られるこの武将は、戦国時代、いや日本史上の悪人といわれれば必ず名前が挙がる存在です。
混乱を極める畿内(現在の近畿地方)においてその智謀と胆力でのし上がったものの、最後は信長の征伐を受け自害に追い込まれます。そんな久秀の生涯を振り返ってみたいと思います。
(※この記事は過去の記事を更新し再公開しました。)
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応仁の乱と明応の政変
久秀の生涯を見ていく前にこの当時の畿内の情勢を見てみましょう。
応仁の乱とは室町幕府8代将軍足利義政の時代に、足利将軍家及び管領家-斯波(しば)氏、畠山(はたけやま)氏の後継者問題を巡って、京都を中心に繰り広げられた内乱です。これにより幕府の支配力は著しく弱体化し、また長きに渡る戦乱は京都を焼け野原にしてしまいました。
応仁の乱における一方の主将であった管領細川勝元の子細川政元は政策を巡って対立する10代将軍義材(よしき)をクーデターによって追放し、新たに11代将軍に義澄(よしずみ)を据え、室町幕府の実権を掌握します。(明応の政変)
この戦乱と政変をもって日本は戦国時代に突入したといわれています。
しかし今度は細川管領家に内紛が勃発します。この政元という人物は修験道(しゅげんどう)に没頭するあまり生涯独身を通し、実子を持ちませんでした。
このため三人の養子を迎えるのですが、それぞれに家臣が付くことになると当然のように派閥が形成され、反目しあいます。
政元は幕府の管領として絶大な権勢を誇りましたが、後継者争いの一派の者に暗殺されてしまい、これを機に後継者争いが激化して細川管領家も衰退してしまいます。
そしてその中から政元の養子の一人澄元(すみもと)の家臣三好之長(ゆきなが)が頭角を現します。之長の孫三好長慶(ながよし)の代になると細川家の実権を掌握し、畿内及び四国の一部を勢力圏としました。
三好長慶と松永久秀
やがて長慶の権勢は室町幕府や管領家を凌駕し、時の室町幕府将軍足利義輝(よしてる)は長慶の嫡男に義の字を与え(義長、のちに義興と改名)またこの親子に官職を与えるなど、幕府の長たる将軍でさえ長慶の機嫌をうかがわなければならない有様でした。
長慶は勢力を拡大するにあたり、積極的に人材登用を行います。その中の一人に松永久秀がいました。
久秀の出生については諸説あり、中には久秀と同じく戦国時代の梟雄(きょうゆう)と呼ばれた斎藤道三と同郷であったというものもあります。
いずれにせよ、名もなき家からの立身であり、これは久秀の能力の高さを表しているといえるでしょう。
久秀は当初右筆(ゆうひつ、書記・秘書)として三好長慶に仕えたとされ、次第にその才能を認められ軍事指揮官としても活躍をするようになります。
その後、長慶が京都を支配するようになると、久秀は公家や寺社との交渉役を任されるようになります。
公家や寺社と折衝するには、礼儀作法や教養を身につけている必要があります。つまり久秀はそのような典雅さを持ち合わせていたということになります。また美貌の持ち主であったともいわれています。
それだけにとどまらず、久秀は三好家の家宰(執事)を務めるようになり、重臣の一人に数えられるようになります。さらには長慶とともに将軍義輝の側近くに仕え、久秀の権勢は主君長慶に劣らぬほどになっていきました。
また久秀は長慶から大和の国(現在の奈良県)の支配を任され、軍事的実力も確固たるものになっていきます。
ここまで久秀は主君長慶にも将軍義輝にも反抗するところは全く見せていません。また右筆から家宰、そして将軍の側近になるという急激な出世は久秀が行政官僚として、また武将としていかに優秀であるかを示しています。
しかしぼちぼち野心が頭をもたげてきます。
松永久秀の悪行①~主家を乗っ取る松永久秀
久秀の急激な出世は、三好家内でも嫉妬と警戒の目で見られていたと思われます。特に長慶の一族からすれば脅威でした。そこで久秀は先手を打ちます。
長慶には三人の優秀な実弟たちがいました。十河一存(そごうかずまさ)、三好実休(じっきゅう)、安宅冬康(あたぎふゆやす)の三人です。
彼らは武勇に優れ、特に軍事面で長慶を補佐し長慶の政権を支えてきました。また長慶の嫡男義興も智勇兼備の武将として知られていました。
このうち三好実休は戦死したのですが、十河一存と三好義興については久秀が毒殺したという説があります。安宅冬康については久秀が長慶に讒言し、これを信じた長慶に殺されたといわれています。
次々と弟たちや嫡子を亡くした長慶は激しく落ち込み、自らも病気になりほどなくこの世を去ってしまいます。
松永久秀の悪行②~将軍義輝暗殺
長慶没後、久秀は他の重臣とともに三好義継(よしつぐ、長慶の養子で十河一存の子)を三好家の後継者に立てます。
しかしここで大事件が勃発します。
三好家の重臣である三好三人衆と久秀の嫡子久通(ひさみち)が将軍足利義輝の館を襲い暗殺したのです。この事件について裏で糸を引いていたのが久秀だといわれています。
このとき剣術の達人であった将軍義輝は、自ら足利家に伝わる名刀を手に敵を斬り伏せ、壮絶に戦い討ち取られたといわれています。
孤立する松永久秀
長慶没後、久秀は畿内において権勢を誇りましたが、主導権を巡って次第に三好三人衆と対立を深めるようになります。
三好三人衆とは、三好長逸(ながやす)、三好政康(まさやす)、岩成友通(いわなりともみち)の三人で、長慶の時代から三好家で重要な位置を占めてきた人々です。
三人衆は主君三好義継を担ぎ飾り物とし、さらに室町幕府の将軍に足利義栄(よしひで)を擁立して久秀を孤立させました。
しかしここで三人衆が自分を軽視することに不満を持った義継は久秀の下に走り、久秀は三人衆を主君の仇として討伐する名目を得ました。
松永久秀の悪行③~東大寺焼き討ち
三好三人衆はついに久秀の本拠地である大和に攻め入ります。しかし久秀は東大寺に陣を張っていた三人衆を奇襲しこれに勝利します。この際久秀軍が東大寺に火をかけ、大仏の頭部や伽藍などが焼失したといわれています。
もっとも歴史上、東大寺を焼いたのは久秀一人ではありません。
東大寺を焼いたもう一人の男~平重衡
久秀の時代から約400年前、同じく東大寺を焼いた人物がいます。それは平重衡(しげひら)という武将で、父である平清盛の命により行われました。
この焼き討ちは清盛に反抗する東大寺や興福寺の僧兵を討つために実施され、このときも大仏は被害を被ったといわれています。
重衡は後に他の平家一族の者たちと共に捕らえられ、鎌倉の源頼朝の元に送られます。このとき対面した頼朝は重衡の器量と教養の高さに深く感心したといわれ、一時は助命することまで考えたようです。
しかし東大寺・興福寺などの強い要求に応じ、結局重衡は斬首されてしまいました。
松永久秀に転機到来~織田信長の上洛
話を戦国時代に戻しましょう。
久秀は主である三好義継を陣営に迎えたものの、戦況は三好三人衆に傾いており、苦戦を続けていました。
その情勢を打ち破る事態が勃発します。織田信長が前の将軍足利義輝の弟義昭を奉じて京に進軍してきたのです。
久秀はいち早く信長に近づき、茶の名器といわれた「九十九髪茄子(つくもかみなす)」を献上し、信長の心をつかみます。信長は久秀の臣従を許し、三好三人衆を追放して畿内を平定し、久秀には引き続き大和の支配を任せています。(九十九髪茄子についてはこちら:婆娑羅な男~佐々木道誉もどうぞ)
久秀は信長からの支援を得て大和の大半を平定し、信貴山(しぎさん)城・多聞山(たもんやま)城を中心として支配体制を確立します。
久秀は築城の名手であり、これらの城には後の築城の手本となるような構造物が建てられています。
中でも「多聞櫓」と呼ばれる構造物は、久秀が考案し初めて多聞山城に導入したものであるといわれており、この後の城郭造りに大きな影響を与えました。
織田信長には従順な松永久秀
信長上洛に際して、久秀は茶の名器を贈ったと書きました。これだけではありません。久秀は信長の機嫌を取るべく他にもさまざまな名物といわれた茶器や刀剣などを贈ったといわれています。
信長もその従順な態度には満足だったことでしょう。しかしそれ以上に久秀の武将としての能力を買っていたようです。
信長の力で将軍になった義昭は兄義輝の仇の片割れである久秀を罰するように信長に言ったようですが、信長はこれをなだめて久秀を幕臣として義昭の側に仕えさせました。
事実久秀は、信長が越前で朝倉・浅井連合軍から挟み撃ちに遭った金ヶ崎の戦いにおいて、近隣の土豪を説得して信長を無事京都に脱出させる功を挙げています。
その一方で、信長からは次のように言われたことがあったと伝わっています。
松永久秀、三つの大罪を信長に指摘される
信長が徳川家康に久秀を紹介する際、このように言ったそうです。
「この老人は常人では一つとして為せないことを三つもしておる。主家(三好家)を乗っ取り、将軍(足利義輝)を誅殺し、そして奈良の大仏を焼いた。まったく油断のならぬ人よ。」
本当だとすれば、久秀はこれをどういう気持ちで聞いたことでしょう。
以前別のコラムでも書いたのですが、信長は人の気持ちをわかる人であり、きっとこのようなことを言ったとしても本人の前ではなかったのではないでしょうか。(そのコラムはこちら:敵は本能寺にはいなかった?~明智光秀の生涯)
あるいは信長流の皮肉をたっぷりと込めた誉め言葉だったのでしょうか。
もっともその信長も比叡山焼き討ちや将軍足利義昭追放などをしており、人のことをどうこう言えないのですが…。
ついでにいくつか久秀にまつわる逸話を紹介します。
健康マニア、松永久秀
久秀は松虫を飼育し、育て方を工夫したところ三年も生きたそうです。
そのことから「松虫でさえ飼い方次第ではこのように長生きする。人間は日々養生を心掛ければ長生きできるに違いない。」といい、日々の養生に気を配ったそうです。
また久秀は中風(脳血管障害などによる麻痺や半身不随)を予防するために、毎日決まった時間に頭のてっぺんに灸を据えたそうです。この習慣は自害する直前までやっていたといわれています。
茶人、松永久秀
久秀は茶人としても知られており、また商業都市堺を支配していた関係から、名物を買い漁ったものと思われます。
久秀はたくさんの茶器を所持していただけでなく、当時一流の茶人であった武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事しています。
紹鴎はこの時代きっての茶人であり、その弟子には、千利休(せんのりきゅう)、今井宗久(いまいそうきゅう)、津田宗及(つだそうきゅう)といった次世代の茶人たちがいます。
また久秀は信長が主催する茶会にも招待され、信長から感謝の言葉をかけられています。
松永久秀、謀反(1回目)
織田信長は足利義昭を将軍の位に就けた功労者でしたが、次第に二人は政治の主導権を巡って対立するようになります。義昭は天下の主だった大名に密書を送り、打倒信長を呼びかけます。
近隣の大名浅井(あざい)氏、朝倉氏、三好三人衆、本願寺、そして信長が最も恐れる武田信玄などがこれに呼応します。いわゆる「信長包囲網」です。
信玄がついに兵を西に向けて上洛を目指し、三方ヶ原(みかたがはら、現静岡県浜松市)で織田・徳川連合軍を一蹴します。この結果を知った久秀は信長の命運は尽きたと見て、信貴山城で信長に反旗を翻しました。
しかし信玄は遠征の途上で病死、武田軍は本国に撤退します。信長は反対勢力を個別撃破するとともに将軍義昭を京から追放しました。
久秀の読みは完全に裏目に出ました。
久秀は信長に降伏し、このときも名物を大量に献上して助命されたといわれています。
松永久秀、謀反(2回目)
数年後信長は浅井・朝倉氏や三好三人衆を滅ぼし畿内の脅威を取り除きました。しかしまだ本願寺勢力は健在であり、さらに遠国では上杉氏や毛利氏が反信長の動きを見せるようになります。
そのような中、久秀は再び信長に反旗を翻し再び信貴山城に籠城します。このとき久秀はいかほどの成算があったのでしょうか?
この当時の情勢は、上杉謙信が越中(現富山県)で織田軍を破った、毛利氏の水軍が織田水軍を破り、大坂の本願寺に食料を運んだなどの戦果はあるものの、前回の謀反のときよりも明らかに条件がよくありません。
というのも前回は信長の喉元に刃をつきつけるような存在であった浅井氏・朝倉氏・三好三人衆は滅び(ただし本願寺は健在)、上杉氏は北陸を行軍するため、真冬は豪雪のため軍を進めることができません。
また毛利氏も元就が没しその後を孫の輝元が継ぎましたが、積極的に他国を侵略するというよりは領土を守ることを本分としており、積極的に信長討伐に動くとは考えにくい状況でした。
久秀は判断を誤ったのか、それとも身に危険を感じたのでしょうか?
松永久秀、茶釜とともに散る
しかし信長はあることを条件に今度も久秀を助命しようとします。それは「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」という茶釜を差し出すことでした。
実は信長はこの茶釜に執心で過去にも献上を迫りましたが、久秀はこれだけは差し出さなかったのです。
この申し出に対し久秀は、「平蜘蛛の釜とわが首を同時に信長に差し出すことはせぬ。」と言い放ち、平蜘蛛の釜を粉々に砕き、城に火をかけ自害しました。さすがに2回目の謀反を許されるはずはないと観念したのでしょう。
一方の信長も本当に久秀を再び許す気があったのでしょうか?裏切りにはとても厳しい信長ですから、一度許しただけでもある意味奇跡なのですが…。
茶釜の種類
茶釜は大別すると2種類あります。1つは平蜘蛛のような天明釜ともう1つは芦屋釜です。この2つの違いは生産地-天明釜は下野国天明(現在の栃木県佐野市)、芦屋釜は筑前国蘆屋(現在の福岡県遠賀郡芦屋町)です。(芦屋釜に関するコラムはこちら:幻の名器 芦屋釜 お茶を嗜み日本を味わう~福岡県芦屋町~)
松永久秀は日本初の爆死者?
久秀は自害の際、平蜘蛛の茶釜に鉄砲の火薬を詰めて火を放ち、信貴山城の天守ともども爆発させたとも伝わっています。しかしこれは明治時代以降に創作されたものだといわれています。
松永久秀の三つの大罪を検証
信長が指摘した三つの大罪について考察してみたいと思います。
まず主家である三好家の乗っ取りですが、久秀は三好長慶に叛意を見せることはありませんでした。また長慶の後を継いだ義継に対しても、一度は対立したものの自分に身を寄せてきて以降はこれに忠実に使えました。
また三好義興と十河一存の死因について義興は病死、一存は落馬による負傷が元であったといわれており、そうだとすれば久秀が関与したとは考えられません。
次に将軍足利義輝の暗殺ですが、久秀の嫡子は直接関わったものの、久秀は当時大和の所領におり直接の関与は認められません。
この事件当時、後の将軍足利義昭は僧侶として久秀所領内の寺院にいました。久秀は義昭に対し命を取らない旨の誓紙を入れています。
ただし嫡子が関与している以上、事前に情報は入っているはずであり、暗黙の了解はあったかもしれません。が、それだけで首謀者とするには証拠不十分でしょう。
最後に東大寺焼き討ちですが、意図的に火を放ったとの証拠はなく、またそれが久秀の命であったという確証もありません。失火であった、あるいは三好三人衆側による放火という説もあります。
またそもそも戦で寺に陣を敷くことで文化財(この当時そのような概念があったのかどうかはわかりませんが)に傷をつけるリスクは明らかであり、陣を敷いた側にも問題があり、久秀だけが責められるのは酷でしょう。
ではなぜここまで久秀は悪人としていわれているのでしょうか?
目先が利きすぎた男、松永久秀
これまで書いたように行政官僚としても軍事指揮官としても久秀は極めて有能でした。ゆえに異例の出世を遂げるのですが、当然それは周囲の嫉妬を買い、さぞ悪く言われたことでしょう。特に久秀は三好一族ではなく、外様です。
そして信長の勢力が伸びてくるといち早く随身し、信長の勢力が危機に瀕すると寝返るというように危機察知能力が敏感で、かつそれを過信していたのでしょう。
この機敏すぎる行動が江戸時代に入り厳しく批判されるようになってしまったのです。
江戸幕府の官学である朱子学においては、家臣が主君を裏切るなどは以ての外であるとされています。久秀のように時勢を読んで陣営を渡り歩くというのは、格好の批判の対象だったのでしょう。(戦国時代を生き抜くには必要な能力でしたが)
また久秀が支配をした大和は寺院とその領地が多く支配が難しい国でした。久秀の後、大和を領地として与えられた豊臣秀長(ひでなが、秀吉の弟)も支配に苦労したといわれています。
寺院の要求通り領地を与えてしまえば、家臣や自分のための領地がなくなってしまいます。したがって武力で押さえつけるわけですが、僧侶たちはその所業を文字に残したため、それも久秀が悪く言われる一因になっています。
豊臣秀長は久秀ほど力に頼った支配はしなかったにもかかわらず、それでも随分悪く言われています。
いつの世でも出る杭は打たれてしまうものです。あまりにも有能であったがゆえに思わぬ嫉妬を買ってしまった代償なのでしょうか。
それにしても泉下の久秀もここまで悪く言われるとは思ってなかったでしょう。
執筆:Ju
初めまして。
自分も松永檀上久秀が好きで歴史を調べて小説にしたいと思っている物ですが、謎の多い武将なのでこういう考察は役に立ちます。
自分の調べた中では久秀は宝蔵院派と結びつきが強く筒井順啓を追い出した後は宝蔵院派と大和を治めたとか。
柳生石舟斎は卑怯者の久秀に仕えたくなくて目通りの時喧嘩を売ったが久秀がこれをうまくいなして柳生の信頼を勝ち得たとか、この時2人が頭突きで興福寺の5重の塔の床に穴をあけたとか。この時に石舟斎は久秀を武人として尊敬するようになり、その後は信長、秀吉、家康と士官の誘いを断り久秀を最後の主として生涯を終えたなど、他にも面白い逸話が出てきています。
もし、久秀に係わる逸話が有れば教えてください。
前略御免ください。
講談を習い始めた主婦です。「本能寺の変」の原稿に「三好、松永、武田の残党なれば、なんのものかは、光秀が反逆とあっては‥‥」があり、調べるうち、この記事に出会った次第です。丁寧且つ冷静な目で歴史考証がされていると思いました。有難うございます。
初めてお便りいたします。私は70代の主婦ですが主として奈良、平安時代の歴史に興味があって、旅先はいつも奈良方面に出向くこの頃です。本日の読売と朝刊※古今をちこち※の記事で「大仏炎上」の触れられていて、松永久秀に興味を持ちこちらのサイトを開きました。この人物について、こちらの記事を読めば歴史の流れまで掴めて私のような素人にもとても分かり易い上、良い図像がちょうど良い具合に盛り込まれていて、読後、多いに刺激を受けました。有難うございました。
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