太田道灌(おおたどうかん)という武将をご存知でしょうか?乱れに乱れた室町時代中期以降の関東にあって、文武両道の武将として活躍をしますが、悲劇的な最期を遂げました。またこの時代にあっては珍しくたくさんの逸話が残っています。それらの逸話のいくつかを道灌の生涯を振り返りながらみていきましょう。
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太田道灌が生きた時代~戦乱の巷 関東
まずは道灌が生きた世の中をざっと見てみたいと思います。
室町幕府成立後、関東を統治する機関として鎌倉公方とそれを補佐する関東管領が置かれました。鎌倉公方は足利幕府初代将軍足利尊氏の次男基氏(兄は二代将軍義詮)が就任して以降、その子孫が代々世襲し、関東管領は尊氏の母方の一族である上杉氏が同じく世襲していました。
そして鎌倉公方は代を経るごとに中央の将軍に対し反抗的な姿勢をみせるようになります。中でも基氏のひ孫にあたる持氏は、補佐役である上杉憲実の制止も聞かず、将軍義教と事あるごとに対立し、ついには討伐され自害します(永享の乱)。このとき憲実はやむなく将軍方として、討伐する側に回りました。
義教の死後、持氏の三男成氏が鎌倉公方になることが許されますが、親の仇の片棒を担いだ憲実の子を暗殺し、今度は鎌倉公方と関東管領の上杉氏が戦います(享徳の乱)。この争いは30年近く続く泥沼の戦いと化します。
このような中で道灌は生まれました。
幼少期の道灌
道灌は、鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の有力家臣太田氏の家に生まれます。道灌は幼少期から英才として知られており、次のような逸話が残っています。
道灌の才気があまりにも鋭いことを逆に心配した父親が「昔から知恵のある者は偽りを言うことが多くなり、偽りを言うものは必ず災いに巻き込まれる。人間は正直でなければならない。たとえば障子のようなもので、真っ直ぐだからこそ立ち、曲がっていては役に立たないものだ。」と言われると、道灌は屏風をもってきて「屏風は真っ直ぐなら立ちませんが、曲がっていると立ちます。これはどうしたことでしょう。」とやりこめました。
上杉氏を支える太田道灌
24歳のときに父より家督を譲られます。享徳の乱がすでに勃発しており、当時は古河公方(この当時鎌倉公方は古河に本拠地を置いていたため、古河公方と呼ばれていました)の勢いが強く、防御の拠点となる城を築く必要がありました。そこで築かれたのが、河越城(川越)と江戸城です。いずれも築城の名人と呼ばれた道灌の工夫が凝らされた名城で、日本の百名城に選ばれています。
江戸城は、後に徳川家康が拠点を置き、江戸幕府の中枢となりました。現在は皇居となっており、皇居には道灌濠と名づけられたお堀が残っています。
河越(川越)城も後に後北条氏が関東支配の拠点とし、江戸時代にも重要な地として譜代大名がこの城を治めていました。
また「足軽軍法」と呼ばれる戦法を考案したといわれています。当時の戦は「やあやあ我こそは〇〇なり」と名乗りをあげ、騎馬武者が一騎打ちで勝負をつけていました。足軽はもともと戦闘員ではなく、兵站など後方任務を担う存在でした。
しかし道灌は足軽に武装をさせ戦闘集団化することで、旧来の騎馬武者の一騎打ちは用をなさなくなり、道灌の軍は敵なしの強さを誇りました。そしてこの戦法は戦国時代に引き継がれ、一般化していきます。
「歌人」太田道灌
道灌は和歌の名人としても知られており、次のような逸話が残っています。
山吹の花
おそらく太田道灌といえばこの話が最も有名でしょう。
あるとき城外に出ていた道灌は急な雨に見舞われます。そこで雨具である蓑を借りようと、一軒の農家を訪れます。「蓑を貸してくれ」と軒先で告げると奥から少女が申し訳なさそうに山吹の花を道灌の前にそっと差し出して、何も言わず引っ込んでしまいました。道灌はわけがわからず、また腹立たしくもあり、雨に打たれながら城に帰り、この話を家臣にしました。
するとその家臣は「それは“七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞかなしき”という有名な和歌にかけて、申し訳ありませんが家が貧しく蓑(実の)一つさえ持ち合わせていません、ということを暗に申し上げたのでしょう」と答えました。これを聞いた道灌は、あの少女の言わんとしたことを理解できずに腹を立てた自分の未熟さを大いに恥じ、以来和歌の勉強に一層励んだそうです。
ちなみにこの歌は後拾遺和歌集に収められており、本来の意味は「山吹の花は美しく咲くけれども実を全くつけないというのは不思議なことだ」というものです。(山吹のうち、ヤエヤマブキという品種はおしべが花びらに変化し、めしべも退化しているので実をつけません。)
この故事にちなんだ場所は、豊島区に山吹の里の碑があり、新宿区には山吹町という地名があります。また埼玉県越生町にも山吹の里と呼ばれる場所があります。
落語にもこの故事をベースとした「道灌」という噺があり、前座の落語家が習う噺として知られています。
川を渡る
ある夜行軍中に利根川を渡ろうとしていました。しかし夜分で辺りは暗く、どこが浅瀬なのかわからず、部下たちがどうしたものかと途方に暮れていました。すると道灌は、
“そこひなき淵やはさわぐ山川の浅き瀬にこそあだ波は立て”
(深い淵は水がたくさんたまっているので水面は静かで波は立たない。それにひきかえ浅瀬は水面と川底の間に水があまりないから波が立つものだ。)
という古歌がある。だから耳を澄まして波音が荒い場所を探してそこを渡ればよい、と指示して無事に川を渡ることができました。
兵の士気を鼓舞する
こんな駄洒落まじりの歌もあります。
小作城(こづくえじょう、現神奈川県横浜市港北区小机町)を攻めていましたが、守りが固くなかなか落とせずにいました。そこで道灌は兵の士気を上げるためにこんな歌を詠みました。
“小作はまず手習いのはじめにていろはにほへと散り散りになる”
(子供が手習い(習字)を初めてするときは、『いろはにほへとちりぬるを』からやるものだ。)
「ちりぬる」と城兵が散り散りになることをかけて、小作の城なぞは簡単に落とせるはずだ、と言っています。これに奮起した兵は小作城を攻め落としました。
「知恵者」太田道灌
将軍の猿
道灌が上洛すると、ときの将軍足利義政が道灌に会いたいと所望しました。義政はいたずらをする猿を飼っていて、その猿は見知らぬ人に飛びかかり引っ掻く癖があるので、猿に襲われ慌てふためく家臣を見て義政は面白がっていました。家臣たちは皆困っていましたが、相手が将軍なので誰も文句を言えません。
このことを聞きつけた道灌は猿の飼育をしている役人に金を渡して、その猿を謁見の前に借りることにしました。道灌は将軍との謁見のための装束に着替え、猿のいる部屋に行くと、案の定道灌の顔を見るなり猿が飛びかかってきました。しかし道灌は落ち着き払って猿を鞭でピシリと打ち据えます。すると猿はすっかり怯えてしまい飛びかかってこなくなりました。
そしてその猿を返し、翌日将軍との謁見に臨みます。義政は例によって猿を廊下につないで、道灌が慌てふためく様子を見てやろうと待ち構えていました。しかし猿は道灌の姿を見るなり、怯えて体を震わせ身動きしません。その横を何もない顔で道灌が通り過ぎると、義政はあの猿が道灌の威厳に怯えたのだと思い、感心しきりでした。将軍の家臣たちは後日この話を聞き、道灌の知恵に驚いたそうです。
最期~名将に訪れた突然の悲劇
話を道灌の生涯に戻しましょう。道灌は30年近く続く享徳の乱を収めるべく東奔西走し、戦いを上杉家優位に持ち込み、古河公方と上杉家の間に和議が成立します。長く不毛な戦いはようやく終了したのです。
しかし、すると今度は上杉家の内部に亀裂が走ります。本家格の山内家と分家格ながら道灌の力により勢力を増した扇谷家が仲を違えてしまいます。
このときの道灌は長い戦いを終わらせた実力者として、その勢力、威名、人気は主家を上回らんばかりのものとなっていました。
山内家の当主顕定は道灌に脅威を覚えます。そこで策を巡らせて扇谷家の当主定正に道灌が謀反を図っているとの噂を流し、それを真に受けた定正は刺客を放ち道灌は命を落としてしまいます。
もっとも暗殺の理由は他にも、定正が道灌の人気に嫉妬した、他の家臣が讒言をした、顕定ではなく北条早雲の計略だったなど諸説あります。
いずれにせよ道灌の際立った才能の高さが悲劇的な最期を招いてしまったのです。
道灌の予言
道灌はその死に際に「当方滅亡」と言い残したといわれています。つまり自分がいなくなれば扇谷家に未来はない、という予言です。自分一人が家を支えていることに自負があったのでしょう。
そして予言は的中してしまいます。道灌が死んだことによって多くの家来たちが扇谷家を離れ、挙句には関東に侵攻してきた北条早雲に攻められ、次々と領地を奪われます。扇谷家は早雲の孫氏康の代に滅ぼされ、さらに山内家も関東を追われ、上杉家の勢力は関東から消滅しました。ときの山内上杉家当主憲政は家督を家来筋の長尾景虎に譲り、景虎は上杉景虎(後に謙信)と名乗りを改めます。(その記事はこちら:「愛」の武将直江兼続~その愛と激動の人生)
道灌辞世の句
歌人らしく、道灌の辞世の句といわれるものがいくつか残されています。どれが本当の句なのかは伝わっておらず、あるいは全て後世の創作なのかもしれません。そのなかの一つに
“かかる時さこそ命の惜しからめかねて無き身と思ひ知らずば”
(世の中は無常であることを自分は悟っていますから、このように命を奪われることになっても悔いはありません)
武人らしい日頃の心構えを詠んだ句です。ただ、あまりにもきっぱりと言い切っているのが、逆にこの世に未練を残しているようにも受け取れます。
もっともこの句は敵の武将を討ち取った後、追悼の意味で読まれた句だともいわれています。
山吹は道灌そのもの?
太田道灌は当時の文化の中心であった京から遠く離れた関東にあり、しかも鎌倉公方の家臣のそのまた家臣という地位でありながら、数多くの逸話が残っています。もちろんそれらには後世の創作と思われるものも混じっています。しかしよほど優れた人でなければ、ここまで話のネタになることはなかったでしょう。
兵士、民からの人気や軍事的実力を考えると下克上を起こせば、関東の覇者になることもできたようにも思えます。しかし教養が高い道灌は儒学を学んでいたと考えられます。だとすれば主に刃を向ける行為は「覇道」という儒学において最も忌み嫌われていたことであり、道灌には受け入れられなかったと思われます。
ここに道灌の限界がありました。後に関東を支配し戦国時代の幕を開けたといわれる北条早雲は、京で育ち道灌と同じように教養の高い人物でしたが、早雲は躊躇なく旧秩序を破壊し、新たな世の中を作り上げます。(道灌と早雲の間には交流があったともいわれています)この違いは、あくまでも家臣として仕えた者と外からやって来た者の違いなのでしょうか。
最後にもう一度、あの歌を引用します。
七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞかなしき
道灌も山吹の花のように関東に咲き誇り、そして実をつけることなく散ってしまいました。しかしその名は後世に残り、世の人々から敬愛を受けているという意味では立派に実をつけたと言えるのかもしれません。
執筆:Ju
現在、小中高生のための「歴史人物学習のためのデジタル教材の案内板」を構築中であり、その 太田道灌 のページから、貴ホームページ(または貴動画)をリンクさせていただきたいと希望しております。
現状では、以下のような画面を考えております。
https://rekijin.net/oota_doukan/
リンクに問題があるようでしたら、取りやめますので、ご連絡いただけたら幸いです。
また表示上、ご意見ご要望がありましたら、ご遠慮なく、お申し付けください。
貴重なお時間を割いてのご連絡、誠にありがとうございます。
リンクに何ら問題はございません。
プロジェクトの一層の発展をお祈りしております。
何卒よろしくお願いいたします。
本日、初めて落語を聞きに行き、前座の噺家の方が、道灌の噺をされていたので、家に帰ってきてから調べている内にこちらのサイトにたどり着きました。
道灌氏が蓑を借りに行ったお宿に、山吹の花を手渡され立腹したけど、後日お城に帰った後、家臣にその話をしたら、山吹の歌にもじり、「実の」と「蓑」をかけて、蓑が無いことを暗に言っている等、大変奥深い話がわかりました。
ありがとうございました。
大変ためになる記事をありがとうございます。
ただ、最後の山吹の花の写真は、山吹ではないように思います。
よろしければご確認ください。
GuidoorMedia編集部のTaroです。コメントありがとうございます!
調べてみますと山吹色の花ということで「パンジーor“ビオラ」の画像を使っていたようです。
そこで今回改めて「ヤエヤマブキ」の画像を使わせていただくことにしました。
今後もGuidoorMediaを何卒よろしくお願いいたします!