世界遺産「平泉」(正式名は、平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-)。今から千年近く前、この地には京の都よりも栄えたといわれる黄金の都市が存在していました。
マルコ・ポーロの『東方見聞録』に出てくる「黄金の国ジパング」は平泉と金色堂を指していたという説もあります。
当時の名残をとどめている建築物は中尊寺金色堂のみで、他は遺跡として残されているだけです。その黄金の都市を造ったのが奥州藤原氏。4代約100年に渡る支配の歴史をたどってみましょう。
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陸奥国 黄金の都平泉がある場所
奥州藤原氏の話をする前に陸奥(むつ)国のことにふれておきます。現在の東北地方のうち、山形・秋田県を除いた広大な地域を陸奥といいました。(山形・秋田は出羽国)また陸奥・出羽は都から遠く離れた場所で、朝廷からは「蝦夷(えみし)」と呼ばれる異民族の住む場所として扱われていました。
蝦夷はしばしば中央政府に対し反乱を起こし、中でも有名なのが奈良時代末~平安時代初期にかけて起こった阿弖流為(アテルイ)の乱です。
阿弖流為は善戦しますが、朝廷から派遣された征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によって討たれ、田村麻呂は胆沢(いさわ、現岩手県奥州市水沢)と志波(しば、現岩手県盛岡市)に築城し、胆沢が鎮守府(軍事の前線基地)となりました。
このとき朝廷に恭順を誓ったこの地方の人々は「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれるようになります。
奥六郡の主 俘囚長安倍氏
この俘囚と呼ばれた人たちの中から、安倍氏が頭角を現します。11世紀に入り当主頼良(よりよし)の代に全盛期を迎えます。奥六郡(現岩手県内陸部、胆沢郡・江刺郡・和賀郡・紫波郡・稗貫郡・岩手郡)を拠点に、北は津軽地方、南は現在の宮城県南部に及ぶ広範囲に影響力をもつようになりました。
陸奥は砂金、馬、動物の毛皮・羽根など当時の都では珍重されたものが産出されるため、それらの取引によって富を蓄積していきました。
そして徐々に朝廷の統制に従わなくなっていきます。
前九年の役~黄金の都平泉はまだ遠く
河内源氏の棟梁源頼義の出馬
安倍氏は貢租を怠るようになったため、陸奥守藤原登任(ふじわらのなりとう)は討伐を試みますが、逆に鬼切部(おにきりべ、現宮城県北部)で大敗を喫し、陸奥守を解任されます。
これが平安時代後期、陸奥の国で起こった戦い「前九年の役」の端緒になったといわれています。そしてこの状況を打開するべく、朝廷は武勇の誉れ高い河内源氏の源頼義を後任の陸奥守として送り込みました。
河内源氏
河内源氏は清和天皇の流れを汲む一族であり、河内源氏の始祖源頼信は藤原摂関家に仕え、のちに平忠常の乱を鎮定し大功を挙げるとともに、関東に地盤を作ったといわれています。その頼信の嫡子が頼義で、若い頃から父親譲りの武勇の主として知られていました。
頼義は朝廷の期待に応えるべく意気込んで陸奥の国府多賀城に着任したのですが、安倍頼良は「よりよし」という名が同じ音では畏れ多いとして、名を頼時に改め恭順の意を示します。
さらに朝廷が恩赦を発したため、安倍氏も罪を許されます。頼義はこれにより安倍討伐の大義名分を失い、また頼時もへりくだった態度で頼義に接し、しきりに饗応するなどしたため、騒ぎは収まりました。
藤原経清 平泉の理想郷を描いた男
亘理郡(現宮城県)を治め、陸奥国府多賀城に勤める官人に藤原経清(ふじわらのつねきよ)という人物がいました。
経清の祖先は、「田原藤太(たわらのとうた)」と呼ばれ、平将門の乱の鎮定や「百足退治伝説」など武勇で知られた藤原秀郷(ふじわらのひでさと)です。秀郷の別の子孫には戦国時代に活躍した蒲生氏がいます。(その記事はこちら:春の風なんか大嫌い!勇猛で優雅な武将蒲生氏郷)
ここで突然この人物を取り上げたのには理由があります。彼のその後の生き方が陸奥の歴史を大きく変えたといえるからです。
経清は安倍頼時の娘を妻とし、男子を一人授かります。これが後の藤原清衡(きよひら)です。また経清は土地を知る者として、そして藤原秀郷の末であることなどから経清は頼義から信頼されていたと思われます。
陸奥に戦乱再び
安倍頼時が源頼義に服従したことにより陸奥に平和が訪れました。
しかしそれを破る事件が勃発します。
頼義の陸奥守の任期も終わりに近づいていたある日、頼義は部下を率いて阿久利川(あくりがわ、あくとがわ)に野営をしていたところ、部下が頼時の嫡男貞任(さだとう)に襲撃されたと報告します。
怒った頼義は頼時に貞任を差し出すように命じましたが、頼時はこれを拒み、ついに刃を交える事態へと発展してしまいます。
この事件は頼義によって仕組まれたものと考えられています。
その理由としては、頼時からすれば任期終了目前の頼義を刺激する意味がないこと(それまでへりくだって仕えてきている)、頼義からすれば陸奥にまで下向したのに何の功も挙げられていないため、戦いを起こすことにより戦功を上げようとしたことが考えられます。
頼義は朝廷から陸奥守に再任され、また頼時追討の宣旨を得て朝廷の許可の下、安倍氏を討伐する公の根拠を得ることに成功したのです。
藤原経清、安倍側につく
藤原経清の同僚に平永衡(たいらのながひら)という武士がいました。永衡もまた頼時の娘を妻としていたため経清とは相婿の間柄にありました。両者は敵対する安倍の婿ということで微妙な立場に立たされます。そして永衡は通謀の疑いをかけられ頼義に殺害されてしまいます。
この出来事によって経清は身の危険を感じ、安倍側に寝返ります。経清は朝廷軍の内情を熟知しており、また頼義にとっても土地を知る者が傍にいなくなったため大きな痛手となりました。
前九年の役は泥沼化します。
安倍頼時戦死と黄海(きのみ)の戦い
頼義は調略によって安倍氏の遠縁にあたる津軽の俘囚を味方に引き入れることに成功します。頼時はこの知らせを聞くと、翻意させるために自ら津軽に向かいますが、道中で襲撃され落命します。そして安倍氏は貞任が後を継ぎました。
勢いづいた頼義は一気に片を付けるべく真冬であるにもかかわらず兵を動かし、黄海(きのみ、現岩手県一関市)で激突します。
しかし冬期の遠征で慣れない雪上での戦闘になったうえ食料は少なく兵は寒さにより疲弊し、また兵の数でも劣っていたため、貞任率いる安倍軍に惨敗を喫し、壊滅的な打撃を受けてわずかな手勢とともに命からがら多賀城に戻る始末でした。
この一戦に大勝した安倍氏は勢いに乗り、奥六郡は安倍氏が完全に支配することになりました。一方敗れた頼義は兵の補充もままならず、単独ではとても対抗できない状況に陥ってしまいました。
源頼義の切り札 平泉の夢破れる
頼義は再任された陸奥守の任期が終わりましたが、頼義でなければ乱を鎮定できないと判断され、朝廷から異例の三度陸奥守に任命されます。しかし相変わらず兵力が不足しており、このまま安倍氏と戦ってもとても勝てるような状況ではありませんでした。
隣国出羽には清原氏という俘囚(ただし後に鎮守府将軍に任じられているため、俘囚ではないという説もあります)がいました。単独での鎮定は不可能と考えた頼義はこの清原氏に目を付け、参戦を促します。
しかし清原氏の当主光頼(みつより)はなかなか動こうとはしません。そこで頼義は朝廷からの恩賞をちらつかせたり、莫大な贈り物をしたり、一説には臣下の礼をとって参戦を頼み込んだともいわれています。
ついに清原氏が動きます。
光頼の弟武則を総大将とした1万の軍勢が頼義の味方となり、安倍軍を破ることに成功します。安倍貞任は重傷を負った状態で生け捕りにされ、頼義の面前に引き出されると頼義を一瞥して息を引き取ったといわれています。
そして安倍氏に寝返った藤原経清も生け捕りにされ、頼義の面前に引き出されます。かつての部下であった経清に対する頼義の憎悪は激しく、錆びた刀で苦痛を長引かせながら首を落とす鋸引きの刑で斬首されました。
経清の嫡男である清衡も当然処刑されるはずでしたが、そうはなりませんでした。なぜなら経清の妻が清原武則の息子武貞と再婚し、連れ子として引き取られることになったためです。こうして清衡は、清原清衡として新たな人生を歩むことになります。
頼義は乱を鎮定した功により、朝廷から陸奥より上国である伊予守に任ぜられこの地を去ります。また武則も朝廷から従五位下鎮守府将軍に任ぜられ、奥六郡の実質的な支配者となりました。
そして陸奥に再び平和が訪れたのです。
府中のけやき並木
前九年の役を鎮定したのち、源頼義・義家親子は戦勝の御礼として大國魂神社(おおくにたまじんじゃ、現東京都府中市)を参詣し、けやきの木を1,000本寄進したといわれています。
これが現在の「馬場大門のけやき並木」と呼ばれる並木通りになったといわれており(諸説あり)、市民から親しまれるとともに、国の天然記念物に指定されています。
後三年の役~平泉の夢再び
清原氏の内紛と後三年の役
清原氏は武則の嫡男武貞が跡を継ぎ、父と同じ鎮守府将軍に任命されています。武貞には三人の男子がいました。長男は、先妻との間に生まれた真衡(さねひら)、次男が清衡、三男が経清の妻との間に生まれた家衡(いえひら)です。
この三人、それぞれ血縁関係が異なっており、これが内紛につながっていきます。(真衡と家衡は母が異なり、清衡と家衡は父が異なり、真衡と清衡に至っては全く血がつながらない。)
武貞が世を去ると、長男の真衡が後を継ぎます。真衡は実子がいなかったため、平氏から養子(成衡、なりひら)を迎え、さらに成衡の妻に源頼義の娘(つまり義家の妹)を迎えます。
これは清原氏も中央政府からみれば「俘囚」であり、天皇家の血をひく平氏と源氏の血を取り込むことで「俘囚」からの脱却を図ったものと考えられています。さらに自らに権力を集中し、一族を家臣として見下すような態度をとるようになります。
こうした動きに清原一族の長老吉彦秀武(きみこのひでたけ)は猛反発し、自分の領地に帰り兵を挙げます。真衡はこれを討伐するべく軍を動かしますが、それに呼応するかのように清衡・家衡の兄弟が反真衡の兵を挙げます。後三年の役の火ぶたが切って落とされたのです。
後三年の役とは、前九年の役ののち、奥州を実質的に支配していた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場する契機となった戦いです。
このタイミングで源義家が再び奥州に下り、陸奥守として着任したのでした。
武家の棟梁 源義家
「八幡太郎」の幼名で知られる義家は幼い頃より祖父・父と並び称される武勇を誇り、黄海の戦いでは敗走中ながら抜群の活躍を見せました。前九年の役後は出羽、下野の国司を歴任し、その後は都で白河天皇の護衛を勤めたなどの記録が残っています。
義家の武勇のほどを物語る逸話があります。
清原武則が義家の弓の腕を試そうと、鎧を3領重ねて木につるし、あれを射てみてほしいと頼みました。すると義家は弓を手に持ち矢を射ると、その3領の鎧はいとも簡単に撃ち抜かれ、それを見た武則は感嘆の声を上げたそうです。
また短歌にも造詣があったようで、こんな逸話があります。
前九年の役終盤戦で衣川の関を捨て逃げ去ろうとする安倍貞任に「衣のたては綻びにけり」“衣服の縦糸がほころぶように衣川の関は滅んでしまったぞ”と下の句を告げたところ、貞任は「年を経し糸の乱れの苦しさに」“糸は時間が経つとほころぶものだ。衣川の関も古くなったので守り切れなかった(決して自分たちが弱かったからではない)”と言い返し、これに感心した義家が武士の情けと貞任を見逃したという話です。
おそらくこの逸話は後世の創作でしょうが、1912年に編纂された尋常小学校唱歌の一曲『八幡太郎』において取り上げられています。
この義家の直系子孫が鎌倉幕府を開いた源頼朝であり、室町幕府を開いた足利尊氏です。ちなみに江戸幕府を開いた徳川家康も新田氏を通じた義家直系を自称していますが、事実かどうかは定かではありません。
激化する清原氏の内紛
真衡は清衡・家衡が兵を挙げたと知るや兵を直ちにそちらに向けます。また陸奥守である義家も真衡を支持したため、わずかな兵しか持たぬ弟たちは義家に降伏します。
その後、真衡は再び吉彦秀武を征伐するべく兵を動かしますが、その道中で謎の死を遂げます。一説には義家による謀殺ともいわれていますが、真相のほどはわかりません。
陸奥守である義家は清原氏の所領相続に介入し、奥六郡のうち三郡づつを清衡と家衡で分けるよう命じます。
しかし家衡はこの裁定に不満を持ちます。この裁定も義家による謀略ではないか、という見方があります。これにより清衡と家衡との間に内紛を起こさせ、戦いを起こしてそこに介入することで武功を上げようというものです。
清衡の新たな戦い~骨肉の争い
家衡は清衡の弟ながら、母親こそ同じであるものの父親が清原の棟梁であったことから、自分こそが清原氏の正統な後継者であると思っていました。また義家の裁定によって分与された土地が自分には不利なものであると考えていました。
そこで家衡は清衡を討つべくその館を急襲し、清衡の妻子は皆殺しの目にあってしまいます。
清衡はわずかな手勢とともに義家の下に駆け込み援助を乞います。義家も陸奥守である自分の裁定を踏みにじられたとして、朝廷の許可を待たずに清衡に味方しました。義家には後付けで朝廷の許可が下りることに自信を持っていたのです。
ここに義家・清衡連合軍と家衡の戦いが勃発します。後三年の役、第2ラウンドの開幕です。
清衡、奥州の覇者になる~義家の計算違い
義家・清衡連合軍は苦戦を強いられますが、家衡を滅ぼすことに成功します。
このときに有名な逸話があります。
義家が行軍中、ふと空を見上げたところ雁が列をなして飛んでいました。しかし急に雁たちは列を乱し、散るように四方へと飛んで行ってしまいました。
義家は怪しみ「孫子の兵法に、雁の列が乱れるのは付近に敵の伏兵がいる証拠だとある。その辺の草むらを探してまいれ。」と部下に命じました。
すると義家の言った通りそこには敵の伏兵が隠れており、それを討ち取って危機を脱したのでした。「雁行の乱れ」という話です。
清衡は清原氏と血のつながりはないものの、一族で唯一の生存者として奥六郡の支配者となります。
一方義家は朝廷からこの戦は前九年の役とは異なり、清原氏の内紛であり私戦ーすなわち陸奥守が介入するべきではなかった戦であると決められてしまい、何の恩賞もないばかりか戦費の支払いも拒否され、それどころか戦中に定められた税を納めなかったとして陸奥守を解任されてしまいます。
さらに義家は自分に味方してくれた武士たちに恩賞を与えるためには私財を割かなければならず、また滞った税の相当分を納めなければ新たな官職に就くこともできず、このため約10年間白河法皇の許しが下りるまでかなり苦労をしたようです。
しかし私財で恩賞を与えたことで、関東の武士たちからの信頼はさらに高まり、このことが頼朝の代にも残り、鎌倉幕府の成立に大きな影響を与えました。しかし義家死後は内紛などにより、河内源氏の一族の勢力は衰退してしまいます。
黄金の都平泉の造営と清衡の願い
清衡は奥六郡の経営を開始します。
その一方で時の関白に名馬を贈るなどして、京の藤原氏と交誼をもち自らの地位を固める布石も打ちました。その後清衡は平泉に拠点を遷し、中尊寺をはじめとした都市造りを開始します。
また砂金を使って宋との貿易を行い、さらにその富の蓄積を行ったとされています。
そして自らの姓を「清原」から父の「藤原」に戻したのでした。
これまで見てきたように、清衡の前半生は戦乱に巻き込まれてきました。父や妻子ばかりでなく、安倍・清原の一族も滅亡し肉親の多くをこの戦乱によって喪いました。平泉の造営は、それら戦没者の供養とこの世が戦のない極楽浄土になるようにとの願いを込めたものだったのでしょう。
そして中尊寺金色堂の落慶を見届け、清衡はこの世を去ります。
清衡を継ぐ者、藤原基衡~平泉の繁栄
清衡の後を基衡(もとひら)が継ぎます。家督相続には異母兄弟と争ったといわれています。
基衡は当初、朝廷から下向してきた陸奥守と政治的に衝突しますが、この争いにおいて朝廷の権威の前に苦杯を嘗めさせられます。
そのことを教訓として新たに赴任した陸奥守藤原基成とは協調し、その娘を嫡子秀衡に嫁がせました。
基成は父と兄弟が鳥羽法皇の近臣であり、そこに接近することで中央政界とより深いつながりを作ることに成功します。
毛越寺の仏像
当時平泉がいかに富強であったかを物語る逸話があります。
基衡は平泉に新たに毛越寺(もうつうじ)の建立を計画していました。そしてそこに納める仏像を都きっての仏師運慶(うんけい)に依頼します。
その依頼にあたり基衡は運慶に、金はもちろん名馬やあざらしの皮など陸奥の珍品を報酬として大量に贈りました。またさらに生美絹(すずしのきぬ)を船三隻に積んで贈りました。
運慶は「練絹(ねりぎぬ)ならさらに良かったのに」と冗談で言ったところ、これを聞いた基衡は慌てて練絹を船三隻に積んで改めて贈ったそうです。
運慶はこの依頼に応え、その仏像の出来栄えはよほど見事なものだったようです。
その噂を聞いてこの仏像を見た鳥羽法皇は「このような素晴らしい仏像を都の外に出してはならぬ」とその持ち出しを禁じてしまいました。
これに対し基衡は法皇の周辺に働きかけ(ここでも大量の金品を動かしたことでしょう)、なんとか毛越寺に運ぶことができたそうです。
権力者を悔しがらせる
基衡は政治的手腕にも優れていました。
時の左大臣藤原頼長が保有する荘園について大幅な増税を命じてきました。しかし基衡はこれと粘り強く交渉し、わずかな増税で妥協させて頼長を悔しがらせたそうです。
頼長といえば「悪左府」と呼ばれ、学識高く理論も鋭く当時の朝廷において権勢を誇っていました。いくら遠隔地にあるとはいえ、その相手を妥協させたのですからその交渉力の高さは見事なものといえるでしょう。
ちなみにこの「悪」ですが、現代の悪いという意味ではなく、性質・能力などが優れているという意味です。
奥州藤原氏と平泉の全盛期~藤原秀衡
基衡が没すると、その後を嫡子秀衡</>(ひでひら)が継ぎます。
秀衡は豊かな財力を背景に父基衡の路線を引き継ぎ、中央政界や寺院への寄進を行うことによって、曾祖父や祖父の代にあったような朝廷からの政治・軍事的介入を許さず、あくまでも独立した勢力として陸奥の平和を守ろうとしました。
その結果、朝廷から従五位下鎮守府将軍に任じられ、また後には陸奥守に任じられることになります。その一方、中央の政治には一切介入せず静観の姿勢を守りました。
この当時、平泉は平安京に次ぐ人口を誇っていたとされ、秀衡も寺院の造営に熱心に取り組み、京都の平等院を上回る規模の無量光院を建立しています。
保元・平治の乱 平氏の繁栄と源氏の没落
ここで秀衡在世時代の中央の政局を見ておきましょう。
というのは、先にも触れた通り奥州藤原氏は中央の政治には不介入の立場を貫いていますが、中央の政治が奥州を中央の動向に徐々に巻き込むようになってきたからです。
天皇家、摂関家の争いに武家が加担した保元・平治の乱を経て、平清盛率いる平氏が覇権を握ります。
その覇権争いに敗れた、源義家から4代後の頼朝は伊豆に流刑となり、源氏は没落します。秀衡は清盛と良好な関係を築き、中立の立場を堅持しました。
その一方で頼朝の異母弟九郎(のちの義経)を匿い、陸奥で養育します。これは清盛が倒れれば源氏が息を吹き返すと考え、源氏に恩を売っておく意図があったものと思われます。
治承・寿永の乱 源氏の巻き返しと平氏の滅亡
源頼朝が伊豆で打倒平氏の兵を挙げ、源平の争いが勃発します。その最中に平清盛が没し、また各地で源氏に敗れた平氏は中央での主導権を失いつつありました。
そこで平氏は自分たちへの加勢を期待し、秀衡を陸奥守に任じます。しかし秀衡は一切動くことなく情勢を引き続き静観します。ただし養育していた義経が秀衡の制止を振り切って兄である頼朝に加勢しています。
源頼朝との対立 平泉に暗雲漂う
義経らの活躍もあり頼朝は平氏を滅ぼします。
すると次は秀衡に対し圧力をかけます。頼朝にとって奥州藤原氏は、自分の本拠地鎌倉に対する軍事的脅威であり、またその無限ともいえる財力は恐ろしいものでした。
秀衡は頼朝に従いながらも、いずれは衝突することを避けられないと考え、重大な決断を下します。
頼朝と敵対し、朝廷から追討令を受けていた義経を陸奥に迎え入れたのです。そしてこのような重大な局面を迎える最中、秀衡は病に倒れてしまいます。
秀衡の遺言 平泉を守りたい
秀衡は思い切ったことを遺言に残し他界します。
その内容とは、義経を主君として息子たちは家臣として仕えるように命じたのです。
これは義経の軍事的才能を買ったことと一族の分裂を防ぐための苦渋の決断であったとされています。
藤原氏の家督は、正室から生まれた泰衡(やすひら)が継ぎました。
消えた黄金の都平泉
頼朝は秀衡が没するとさらに強い圧力をかけ、義経追討を要請します。これに屈した泰衡はついに父秀衡の遺言に反し、義経を奇襲して討ち取り、その首を頼朝に届けます。
しかし頼朝はこれまで義経を匿ってきたのは朝廷に対する重大な罪であるとし、結局全国に動員令をかけ陸奥の地に攻め込みます。
そして陸奥の地で隆盛を極め、仏教の理想郷であった平泉はわずか100年ほどでその栄光の歴史に幕を閉じたのでした。
頼朝は平泉に入るとその繁栄ぶりに驚き、戦火を免れた寺院の保護を命じました。
しかしその後の火災や戦乱によって多くの建物は焼失し、現代には中尊寺金色堂、毛越寺庭園などごく一部がその繁栄を伝えてくれているのみです。
義経不死伝説
源義経は平泉を逃げ、その後も生き続けたという伝説がいくつもあります。北海道には義経伝説が残された土地が複数あるほか、中には中国大陸に渡り、チンギス・ハーンになってモンゴルの大帝国を築いたなどという説もあります。
しかしながらいずれの説も確証はなく、伝説の域を出るものはありません。
平泉の栄華を現代に伝える中尊寺金色堂
金色堂は戦火を逃れ現在も中尊寺に残されています。
この仏堂には奥州藤原氏三代、清衡・基衡・秀衡の遺体と泰衡の首級が納められており、夫々の身体的特徴や死因などが研究・特定されています。
金色堂は外装、内装とも総金箔貼りであり、奥州藤原氏の栄華を物語る建築物としても知られています。(写真の建物は覆堂と言われる金色堂を風雨から保護する建物で、その中に金色堂があります。)
諸行無常 平泉もまた然り…
松尾芭蕉がその紀行文「おくのほそ道」で、平泉を訪れた際に残した有名な句があります。
夏草や つわものどもが 夢のあと
これは平泉がかつては栄華を極めていたのに、芭蕉が訪れたときには、ただただ草が茂っている野原になっていることに、この世の無常を詠んだ句といわれています。
黄金の都平泉は清衡の願いによって造られ、その子孫とともに世の中から消えてしまいました。我々現代人は、中尊寺金色堂のきらびやかさだけを残すのではなく、清衡が平泉の地で願った理想も同時に残していかなくてはいけないのです。
執筆:Ju
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