西郷従道(さいごうつぐみち、じゅうどう)は西郷隆盛(たかもり)の弟です。兄隆盛は江戸幕府打倒最大の立役者でしたが、西南戦争を起こし自害します。
従道は兄に同心せず、明治政府の中心人物の一人として明治時代をけん引していきました。
兄が「大西郷」と呼ばれ今日でも良く知られた人物であるのに対し、この弟は「小西郷」と呼ばれ知名度も兄ほどではありません。
今回は偉大な兄に隠れがちな西郷従道を紹介します。
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西郷家の三男従道
西郷家は薩摩藩の下級藩士で、従道はその家の三男に生まれました。長兄に隆盛、いとこに大山巌(おおやまいわお)がいます。
兄隆盛は薩摩藩主島津斉彬(しまづなりあきら)に抜擢されて国事に奔走しましたが、従道も藩内の尊王攘夷派に加わり、寺田屋騒動では謹慎処分を科されています。
イギリスの軍艦が鹿児島湾に侵入した薩英戦争ではスイカ売りを装った決死隊に志願し「薩摩人らしい」血気盛んなところを見せています。
旧幕府軍と新政府軍の戦いである戊辰戦争でも、重傷を負うものの各地を転戦して活躍しました。
明治維新の中核となった薩摩藩の一員として従道も新政府に出仕しますが、ここでちょっとしたハプニングに見舞われます。
従道は本名じゃない?
実は従道の本名は隆道(たかみち、りゅうどう)でした。
新政府に名前を登録する際に係の役人に名を尋ねられ「リュウドウじゃ」と答えたところ、薩摩訛りが強く「ジュウドウ」と間違って聞き取られたため、その名前で登録されてしまったのです。
ちなみに兄隆盛にも同じことが起こっています。隆盛も本名は隆永(たかなが)だったのですが、友人が間違えて西郷の父親の名である隆盛で登録してしまったのです。
もっとも隆永、隆道というのは武士の家における諱(いみな)-肉親や名付け親しか使わない名-であり、兄の場合は吉之助(きちのすけ)、弟は信吾(しんご)を通称にしていましたので、特に気にも留めなかったようです。
兄から「大馬鹿者」と紹介される弟
幕末、薩摩藩の指導者であった兄隆盛は弟従道と従弟大山巌を側近として使っていました。
兄がこの二人を紹介するときには「知恵者の弥助(やすけ、大山のこと)と大馬鹿者の信吾(従道のこと)」と言っていたそうです。
大山は砲術の専門家であり、自ら大砲を改良しそれらは「弥助砲」と呼ばれていました。また隆盛に命じられて海外の商人と鉄砲や大砲の取引をしており、数字に明るく頭脳明晰だったようです。
しかしだからといって兄が本気でこの弟を馬鹿者と思っていたわけはないでしょう。
自分の実弟なので人に紹介するときには卑下していただけだと思います。あるいは「馬鹿正直」といった意味が込められていたのかもしれません。
軍人になった西郷従道
従道は新政府の兵部省(後の陸軍省および海軍省)に出仕することになり、海外の軍事調査のために渡欧します。このとき行動を共にしたのが長州出身の山縣有朋(やまがたありとも)です。
山縣は後に「明治政府の法王」と呼ばれ、陸軍だけではなく政府全体を牛耳るような存在になりますが、このときはまだ兵部省の高級官僚の一人でした。
この出会いは従道に大きな影響を与えることになります。
二人は帰国すると共に陸軍少将に任じられ、山縣が実質的な兵部省のトップとなり従道はそれを補佐することになります。
征韓論~兄との決別
この頃より政府内は征韓論(朝鮮半島への出兵)を巡り推進派と反対派で真っ二つに割れていました。
推進派の頭目は兄隆盛で薩摩・土佐人の多くが、反対派の頭目は大久保利通(おおくぼとしみち)で長州人のほとんどと薩摩人の一部がついていました。
結論だけ言うと反対派が勝利を収め、敗れた推進派は政府を辞め、西郷隆盛を筆頭にその多くが故郷に帰ってしまいます。
しかし従道は兄の意見には賛同せず反対派に回りました。ヨーロッパをその目で見た従道にとって征韓論は暴論であると判断したからです。
同じ判断をした者の中に共にヨーロッパを見て回った山縣有朋がおり、また実の兄同様に慕う大久保の存在があり、従道は彼らの影響を強く受けたものと思われます。
大久保利通と西郷従道
大久保利通は薩摩藩の出身で西郷隆盛とは幼い頃からの親友で幕末の薩摩藩をけん引し、二人は生死を誓い合ったほどの仲でした。
そんな大久保ですから従道のことも実の弟のように可愛がったといいます。
従道の妻清子(きよこ)が二人の関係について語った言葉が『甲東逸話』(かとういつわ)という大久保を偲ぶ書籍に残されています。
終始陰になり日向になって、親切にしてくださいましたので、まるで実の兄よりも大久保さんの方が親しく、ほとんど骨肉の兄同様に思って居りました。
従道はしばしば大久保の邸宅を訪ね食事を共にし、清子夫人も大久保とは「お清どん」「おじさま」と呼び合うほど親密だったようです。
西郷従道と西南戦争
征韓論による分裂から4年後、兄隆盛は薩摩の元軍人たちに押し立てられる形で挙兵し、西南戦争が勃発します。
陸軍卿(大臣)であった山縣が司令官として九州に出征したため、従道は陸軍卿代理として東京に残りました。残されたのには様々な配慮がなれていたことは想像に難くありません。
兄の死
西南戦争において当初政府軍は勇猛な薩摩兵の前に苦戦しますが、徐々に戦況を有利に運ぶようになり、西郷隆盛らを薩摩に押し返します。そして兄隆盛は城山で自刃して果てました。
その報せを聞いた従道は号泣し、政府を辞める決意を固めます。
しかしそれを止めたのが「もう一人の兄」大久保利通でした。
大久保は従道の性格を知り抜いています。今日の説得が不調に終わっても、また翌日現れて毎日必死の説得を続け、どうにか従道を翻意させることに成功しました。
しかしさらなる不幸が従道を襲います。
「もう一人の兄」の死
大久保利通が刺客に襲われ命を落としたのです。もしかすると従道は実の兄を喪った以上の衝撃を受けたのかもしれません。この間、従道がいかなる心境で過ごしていたのかはわかりません。
しかし従道が政府を辞めなかったことを考えると、大久保がやろうとした国造りを引き継ぐ覚悟をしたのではないでしょうか。
海軍育ての親を育てた西郷従道
明治政府に留まった従道は様々な役職を歴任します。
そして日清戦争が近づく頃、2期目の海軍大臣を務めることになります。
これまで書いてきたとおり、従道は陸軍の人間です。しかし当時の海軍には陸軍の山縣有朋、大山巌あるいは西郷従道自身のような大物がいませんでした。
そこで従道が転籍するかたちで大臣になりました。とはいえ従道は海軍のことを何も知りません。そこである人物を抜擢して実務に当たらせます。
それが山本権兵衛(やまもとごんべえ、ごんのひょうえ)です。
山本は当時まだ大佐に過ぎなかったのですが、将来の海軍につき明確なビジョンを持った数少ない人物でした。また従道と同じ薩摩人であり、意思疎通がしやすかった面があったのでしょう。
山本は頭の回転が速く論理が鋭いのですが、気に入らなければ上官にも食って掛かるような喧嘩っ早さがあり、良くも悪くも典型的な薩摩人でした。従道が上司にいなければ、小うるさい奴として海軍を辞めさせられていたかもしれません。
従道は山本に全てを委ね、山本は従道のバックアップのもとで海軍の改革を進めました。山本の大胆な改革は激しい非難を受けることもありましたが従道は山本に腕を振るわせ、それは日清・日露戦争の勝利に結びつきます。
「わしもわからん」
日清戦争が終了すると、今度はロシアとの関係が緊張してきます。そこで山本は海軍の大拡張のため途方もない額の予算を作成します。
従道はいつものようにそのまま大蔵大臣に提出したのですが、閣議で大蔵大臣の井上馨(いのうえかおる)と首相の伊藤博文(いとうひろぶみ)は苦い顔で従道に文句を言い始めます。
従道はそれを涼しい顔で聞いていましたが、「実はわしもよくわからん。」と笑い二人を唖然とさせます。
そして「部下の山本というのがよくわかっているので、そいつを呼んで説明させます。」と続けて、実際に山本を閣議に招いて説明をさせると二人は納得したといわれています。
ある会議にて
余談になりますが、従道はユーモアを身につけていた人物でありそれが政府の同僚たちから愛される一因になっていました。以下はそれを象徴する逸話です。
ある会議で出席者の一人がわかりきったことについて長広舌を振るったため、会議はすっかり白けてしまいました。
その人物がしゃべり終わって椅子に座ろうとしたところ、横に座っていた従道がその人物の椅子を後ろに引いたため、床に尻餅をついてしまいました。
会議は笑いに包まれ、その人物も自分の非に気付いてその後の会議はスムーズに進んだそうです。
戦艦「三笠」誕生秘話
日清戦争が終わり、日露戦争の靴音が忍び寄ってきたころ、山本権兵衛は従道の後を襲って海軍大臣に就き、軍備拡張に日夜努力していました。
そして最新鋭の戦艦をイギリスに発注しようとしていたのですが、予算が尽きていたため手付金すら払うことができません。すぐに発注しなければ戦艦の完成は大きく遅れるばかりか、他国から先に発注されてしまうかもしれません。
山本は従道のもとを訪れ、この苦境をどうするべきか相談します。
すると従道は即座に
「それは買わなければなりません。予算を流用するのです。(次年度の予算を使ってしまうこと)これは憲法に違反する行為ですが、そのことを議会で責められたら二人で二重橋の前に行って切腹しましょう。それで軍艦ができるなら本望です。」
と答え、山本も腹を固めました。
こうして誕生した戦艦「三笠」は連合艦隊の旗艦になり、日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅するのです。
戦艦「三笠」についてはこちら:明治の歴史が見える場所~横須賀に記念艦「三笠」を見に行こうもどうぞ。
従道の失敗
このように大らかで人の意見をよく聞く従道でしたが、ある事件を巡って自分の意見を強硬に主張して強く非難されています。(ただし強硬意見を主張したのは従道だけではありません。)
それは大津事件の処理についてでした。
大津事件
大津事件は日本を訪問していたロシア帝国の皇太子(後に皇帝に即位したニコライ2世)を警察官が斬りつけて重傷を負わせたという事件です。
当時内務大臣(警察は内務省の管轄)を務めていた従道はこの事件に驚愕し、この警察官を死刑にするべきと主張した強硬派であり、司法当局に相当な圧力を加えたといわれています。
しかし当時の日本の法律上では死刑には相当しなかったため、大審院院長(現在の最高裁判所長官に相当)の児島惟謙(こじまこれかた)は「日本が法治国家として法は順守されなくてはならない」という信念を曲げず、結局無期懲役の判決が下されました。
この事件は、三権分立の原則が確立された重要なものとされています。
従道はなぜこのときに限って強硬な主張をしたのでしょうか?
おそロシや
ロシア帝国は当時世界最強クラスの軍事力を誇る国家でした。当時の日本ではとても対抗できる術はなく、皇太子暗殺未遂をきっかけにロシアに攻め込まれたら国が滅んでしまうとの恐怖があったからです。
従道は軍人であり、その実力差を痛いほど理解していたためこのような暴挙に及んでしまったのでしょう。
偉大な政治家なれど首班にはならず
従道は陸軍卿、文部卿、農商務大臣、内務大臣などを歴任しますが、総理大臣になることはありませんでした。何度も推挙があったようですが全て断ったといわれています。これは従兄大山巌も同様でした。
二人は隆盛が西南戦争で逆賊になってしまったことをその理由にしています。ただそれ以外にも理由はあったのではないでしょうか。
それは「二人の兄」への遠慮です。大久保利通も西郷隆盛も政府の首班の地位に就いたことはありません。二人とも実質的には明治政府の首班のような存在でしたが、正式な官職上は首班にはなっていません。
あの「偉大な兄貴たち」ですらならなかった政府首班に自分がなるわけにはいかない。そんな思いがあったのではないでしょうか。
貧乏徳利
大隈重信(おおくましげのぶ)は従道を次のように評しています。
西郷従道は、一口に言うと、貧乏徳利のような人物だ。あの素朴な風貌で、なんでもござれと引き受ける。貧乏徳利は、酒でも、酢でも、醤油でも、なにを入れてもちゃんとおさまるからな
さまざまな官職を歴任し、見事に務めた従道への大隈らしい賛辞です。
権兵衛をやり込める従道
日露開戦の数年前、桂太郎(かつらたろう)が内閣総理大臣に就任するにあたり、山本権兵衛を海軍大臣に据えようとしました。(前任の山縣有朋内閣からの留任)
しかし山本は桂を山縣の子分程度にしか思っていなかったため、そのような人物の下で大臣を務めたくないと留任拒否の姿勢を取っていました。
この話を聞きつけた従道は、「あなたがやらないのなら私が海軍大臣になろう」と言いました。従道は山本の大先輩であり、その人物に自分と同輩と考える桂の下で大臣をやらせるわけにはいかず、山本がしぶしぶ大臣留任を決意したそうです。
結果としてこの桂内閣が日露戦争の準備から終戦までを担い、山本は海軍大臣として大きな仕事をやってのけることになります。
大宰相伊藤博文と西郷従道の仲
初代内閣総理大臣伊藤博文(いとうひろぶみ)は同輩たちを「○○君」と呼んでいましたが、従道に対してだけは「あなた」と呼んでいました。
伊藤には従道に頭が上がらないわけがありました。
大隈重信は明治十四年の政変で伊藤らと対立して政府を追われますが、それを正面切って辞職を勧告したのは従道でした。大隈は当初辞職を渋っていましたが、従道の決意を見て取って受け入れたといわれています。
また伊藤が代表となって清国と条約交渉に出向いた際に従道は同道して、伊藤をずいぶん助けたようです。
伊藤は従道の死後「あの人は私の恩人である」と偲んだそうです。
一方従道の方は「伊藤さんは非常に物識りで偉い人であるが、非常のことが起こると少し頭が狂いがちであった」と伊藤の頭の良さを評価しつつも欠点を見抜いていました。
大山巌と西郷従道の仲
大山と従道はいとこ同士であり、若い頃から兄隆盛の下で仕事を共にしていただけに血縁関係を超えて仲が良かったそうです。次のような逸話があります。
従道は愛のキューピッド
従道の従兄大山巌は妻を亡くし後妻を探していたところ、ある女性と出会い一目惚れします。
その女性の名前は山川捨松(やまかわすてまつ)。彼女はアメリカに留学して西洋の文化を身につけた大変ハイカラかつ知性の高いな女性でした。
しかし二人の間には大きな問題がありました。
それは大山が薩摩藩の出身であったのに対し、捨松は会津藩出身でした。この両藩は幕末において官軍と賊軍に分かれて戦った間柄だったのです。特に敗者となった会津は薩摩を激しく憎悪していました。
特に捨松側の親族が猛反対したため、この話は暗礁に乗りかけていました。
ここで従道が山川家の説得のために使者となって訪問します。
捨松の兄山川浩は「我が家は戊辰戦争で朝敵となった家ですので(どうぞご容赦ください)」と言い、断ります。
しかし従道は「自分と大山も西南戦争で朝敵となった西郷隆盛の身内ですので(そのことは気になさらぬよう)」と切り返すなど粘り強く説得します。すると山川浩も折れ、これが功を奏し晴れて二人は結婚することになります。
西郷従道の処世訓
従道は処世訓として以下のようなことを語ったそうです。
人間は出世しようと思うなら、人の嫌がることを率先してやるべきである。
人間は人と衝突したくないと思うなら、真正面から衝突するつもりで行かなければならない。
人間はあまり物を考え過ぎてはいけない、いい加減に断行しなければならない。
非常に簡単にまとめれば、泥を被ることを厭うな、人とは正直に接しなさい、やろうと決めたら迷わずやれ、ということでしょうか。
どれも自分の耳には痛いお言葉です…はい。
偉大な政治家、西郷従道
兄隆盛は革命家として江戸幕府の打倒と明治政府の樹立に尽力しました。一方従道はその兄が創った新政府を育てる役目を果たしました。
従道は有能な部下を見出してその者に全て委ね、もし部下が危機に瀕すればそれを助けてやり、失敗すれば自分が責任を取り、成功すれば手柄は全て部下のものにするというやり方でした。
このため部下たちは従道に傷をつけてはならないと懸命に働いたそうです。
これは兄隆盛や従兄の大山巌もそうでしたし、大久保利通にもそのような傾向がありました。
先述のとおり従道が山本権兵衛を抜擢していなければ、日本海軍がバルチック艦隊を撃破できたかどうかわかりません。
それでも兄ほど名前が知られていないのは自分を表に出さず、功名を部下や同僚に譲っていたからでしょう。
西郷従道邸
最後に現在重要文化財として保存されている従道の邸宅をご紹介しておきます。
元々は東京都目黒区の邸宅が愛知県犬山市の「博物館明治村」に保存されています。こちらは邸宅の敷地内にあった接客用の洋館を移築したものです。
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