瀬戸内国際芸術祭─瀬戸内海の島々、環境破壊を乗り越えて
「瀬戸内国際芸術祭」について聞いたことがありますか?
「瀬戸内国際芸術祭」は、瀬戸内海の島々を元気づけ、ふたたび希望の海にしていこうと2010年から始まった国際的な現代アートの祭典です。そこには、深刻な環境破壊を乗り越えていきたいという人々の切実な願いが込められています。瀬戸内海の東部、主に香川県の島々を舞台として3年ごとに開かれ、今年の開催で4度目となりました。
📷 直島・宮ノ浦港のフェリー乗り場の正面にある「海の駅 直島」です。直島はこの芸術祭の中心的存在となっている島で、船の発着時間には荷物を持ったたくさんの人で賑わっています。筆者撮影
この芸術祭では、海や島々の自然・生活文化とコラボレーションした作品を鑑賞するため、国内外から毎回100万人前後の人が訪れています。世界のアーティストたちによる瀬戸内海をテーマとした作品は、もちろんこの芸術祭ならではの大きな魅力でしょう。そっと静かに作品の前でたたずんでいる人々の様子はとても印象的で、島々の随所で「感じる時間」「考える時間」が流れているようです。
ですが、アーティスト自身を含めて多くの人々を惹きつけているのは、もしかしてここに現代社会が抱える共通の問題性があること、そして大自然と人間活動が融合してきた瀬戸内海という場所の居心地の良さがあるからなのかもしれません。
📷 香川県豊島の唐櫃(からと)地区にある豊島美術館の周回路です。海を見ながらこうして歩いていると人間社会を相対化することができ、不思議に世界や自分自身のことがよく見えてきます。筆者撮影
でもなぜこの瀬戸内海で、また海と島々をテーマとする芸術祭が開催されるようになったのか、もう少し詳しくご紹介することにしましょう。
瀬戸内国際芸術祭までの瀬戸内海の歴史
瀬戸内海は多島海─古代からの交通の大動脈
日本は海に囲まれた島嶼国(とうしょこく)です。飛行機が日本に近づいてきた時、大きな青い海とたくさんの島々にきっと気づかれることでしょう。古代から人々は黒潮(日本海流とも)という世界でも最も強い海流の一つにのって島から島へとダイナミックに海を渡ってきました。日本のさまざまな海、なかでも「交通の大動脈」といわれてきたのが「瀬戸内海(Seto Inland Sea)」です。
📷 芸術祭に参加している島々のなかでは最も大きな島──小豆島の土庄港(とのしょうこう)です。この港は古くからたいへん栄えてきた港で、現在も大小の船が行き交って島々や人々の躍動感を感じます。筆者撮影
この海は2つの大きな島──本州(古くは秋津島といいました)と四国に挟まれた日本最大の内海で、広さは2.3万㎢あります。世界的に知られる地中海が300万㎢ですので、その130分の1ほどの広さですが、平均水深は地中海の1,500mと比べて38mと浅く、太陽の光がよくとどく生態系の豊かな海なのです。
瀬戸内海は西日本に位置し、いわゆる「閉鎖性海域」です。月の引力がもたらす1日2回の海の干満によって大洋から新鮮な海水が流れ込んできますが、自然の循環を保つ上では人間社会の側の調整が絶えず求められています。 環境省せとうちネット・瀬戸内海より筆者作成
その優美な海岸線から、日本の人々は瀬戸内海というと白砂青松をイメージしますし、多様な生物で満ち溢れた磯や干潟、海藻の森が広がっている藻場は、人々の大切な憩いの場ともなっています。現在、3,000万人もの人がこの「里海 SATOUMI」といわれる瀬戸内海のそばで暮らしています。
もう一つ、瀬戸内海には大きな特徴があります。この東西450㎞、南北15㎞~55㎞という横長の海には、エーゲ海(地中海の東部)のようにたくさんの島々が分布し、ここは世界有数の「多島海の海」でもあります。周囲が100m以上ある大きな島だけでも、数えると727島あります(海上保安庁による)。人も物も、情報も文化も島々を伝い、日本が「稲穂の国」となっていったのも島々の伝搬によるのです。
ここで19世紀半ば頃の近世江戸時代の絵図をごらんください。たくさんの小さな帆船が島々で風待ち、汐待ちをしながら走っているでしょう?瀬戸内海を行き交う多くの船には、諸港をつないであらゆるものを循環させ、島国全体を充足させていく大きな役割がありました。
この時代、国内人口が3,500万人(なんと倍に!)になったともいわれているのですが、こうした瀬戸内海の船の活躍も大いに関わっていたのです。
そしてきっと驚かれるでしょう、東京も大阪もたくさんの船が運河を行き交う、地中海のベネツィアのように美しい水の都でした。
これは1847年に発行された江戸時代の絵図です。本州の下津井港近くの高台から南の四国方面を望んだ絵です。帆を上げたたくさんの帆船が海を往来しているのがおわかりでしょう。青い海と空、緑の島々を背景に、きっと美しい光景だったことでしょう。 暁鐘成編『金毘羅参詣名所図会』歴史図書社1980年 pp.76-77
この絵と同じ景色は、岡山県倉敷市の鷲羽山(わしゅうざん)の展望台から見ることができます。ただし、今では巨大な瀬戸大橋(海峡部だけで9.4㎞あり、1988年に完成しました)が四国まで架かっていますし、真っ白い帆を上げた木造帆船もすっかりみられなくなりましたが──。
「世界の宝石」「東洋の楽園」といわれた瀬戸内海
このように瀬戸内海は、古くから「交通の大動脈」としてたいへん重要な役割を果たし、また広く一帯が栄えました。
19世紀に入り、大洋を航海してここに辿りついた多くの欧米人は、多島海の美しさや自然と人の暮らしが融合した穏やかな景観、そしてシークエンス景(船から見た動景)に魅了され、瀬戸内海を絶賛しています。そのなかには、よく知られたドイツ人でオランダ商館医のシーボルトや、同じくドイツ人で地理学者のリヒトホーフェン、イギリス人のアーサー・トンプソンという人もいます。すこしご紹介しましょう。
■シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)
「この内海の航海をはじめて以来、われわれは日本におけるこれまでの滞在中もっとも楽しみの多い日々を送った。船が向きを変えるたびに魅するように美しい島々の眺めがあらわれ、島や岩島の間に見えかくれする日本〔本州〕と四国の海岸の景色は驚くばかり…」シーボルト著 斎藤信訳『江戸参府紀行』1967年 p.121
■リヒトホーフェン(Ferdinand Freiherr von Richthofen)
「広い区域に亘る優美な景色で、これ以上のものは世界の何処にもないであらう。将来この地方は、世界で最も魅力のある場所の一つとして高い評価をかち得、沢山の人々を引き寄せることであらう。此処には至る処に生命と活動があり、幸福と繁栄の象徴がある。」リヒトホーフェン著、海老原政雄訳『支那旅行日記』1943年 p.16
■トンプソン(Alexander Mattock Thompson)
「それはある10月の秋も深まった日のことだった。昼食後いつものように甘い眠気に誘われてうとうとしていると、突然、外を眺めていた幾人かの乗客の感嘆する叫び声に起こされた。そして2分後にはあらゆるデッキチェアから人々が立ち上がり、ふだんは人気のない船首が興奮した人々で混雑し、魅惑的な多島海の印象を収めようとあらゆるカメラのシャッターがきられた。」Japan for a Week(Britain For Ever)By A. M. THOMPSON 1911 p.138
一方国内でも、万葉時代の歌枕や歴史の名所だけではなく「多島海の景観」への評価が高まり、瀬戸内海は1934年に国内ではじめて国立公園に指定されました。いつしかここは「世界の宝石」「東洋の楽園」といわれるようになっていました。
瀕死の海、そして豊島の産廃問題
ですがその後、先述のリヒトホーフェンが「…かくも長い間保たれて来たこの状態が今後も長く続かん事を私は祈る」(同書 p.16)といった瀬戸内海は、次の明治時代からの急激な近代化の流れのなかでその姿を大きく変えていきます。
鉄道や車が中心の陸上輸送体系となり、船も巨大化・動力化されて島々はまたたく間に衰退しました。なぜなら通過地点化によって小さな帆船が構築してきた輸送ネットワークが途切れ、暮らしの立ち行かなくなった人々が大阪・神戸などの大都市に次々と移転していったからです。
世界的にも希少な豊穣の海も、戦後すすんでいった工業化・都市化によって大規模に埋め立てられ、工場・生活排水のために「瀕死の海」とさえいわれました。当然ながら国や自治体は埋め立てや排水を規制し、人々も以前の「里海 SATOUMI」に戻るよう海の回復を願ってきたのですが──。
そのような時、瀬戸内海をめぐってある大きな社会問題が起きました。香川県の豊島(Te-shima)という島で、1978年から大量の産業廃棄物が違法に持ち込まれるという国内最大の産廃問題が持ち上がったのです。都市開発に使われる大量の土砂・海砂と引き換えに大都市の廃棄物がこの島に持ち込まれ、土砂採取の跡地に埋められていきました。
島の人々は長い期間、たいへん危険な廃棄物の搬入を止められませんでした。支援者とともに廃棄物の撤去と無害化処理を求めて立ち上がり、長く厳しい交渉の末に、2000年公害調停が成立しました。この写真は、豊島の産廃場から廃棄物が撤去されているところです。
📷 2006年時点の豊島の産廃場の様子です。廃棄物の撤去と無害化に向けて、掘り出された廃棄物はトラックにのせられ、隣の直島の処理場に船で運ばれていきました。筆者撮影
ようやく91万トンという大量の廃棄物の撤去と隣の直島(Nao-shima)での無害化処理事業が完了したのは2017年であり、当初の開発時から含めると半世紀余りの時間を解決に向けて要することになりました。島の豊かな自然環境や日常の暮らし、メンタルヘルスを含んだ人の健康面へのダメージは今も大きく、人々は島の再生、瀬戸内海の再生を願って、平和の象徴──オリーブの木を植え続けています。
📷 豊島の家浦港近くに植えられたオリーブの木。人々の希望が託されているこの木は、夏には深い緑の葉の間に白い花を咲かせて、多くの人々を和ませてくれます。筆者撮影
瀬戸内海─深刻な環境破壊を乗り越えて
この豊島の産廃問題がきっかけとなり、瀬戸内海の島々を元気づけ、再び希望の海にしていこうと開催されるようになったのが、じつは「瀬戸内国際芸術祭」だったのです。
芸術祭では、アーティストはこの比類のない海と島々の自然、ここで流れている独特の柔らかな時間、豊かな生活文化や食文化、あるいは「交通の大動脈」としての瀬戸内海の歴史などを作品で表現していきます。
その場所でまるで息づいているかのように生き生きとして感じられる各島の作品は、自然と人間活動が融合して創られてきた「瀬戸内海の文化」があったからこそ誕生してくるのでしょう。
現代アートによってふたたび瀬戸内海と人間社会とをつなげ、希望の海にしていくという「海の復権」を掲げたこの祭典は、生きている世界を捉える「確かなまなざし」を私たちが取り戻し、世界の人々と未来の持続社会を目指していく大きな力になるはずです。
それでは次回からさっそく、また表舞台に立った瀬戸内海の島々をアイランドホッピングしていきましょう。
Part 2の記事はこちらへ。 【島めぐり~瀬戸内国際芸術祭の意義と「本当の豊かさ」のある豊島】
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